郷里のネットニュースをいつもチェックしているが、そこに映画で、『じょっぱり看護の人花田ミキ』というのが作られ上映されたと出た。監督は五十嵐匠という青森市出身の気鋭の人。岩波映画にもいて、兼高かおるについて世界各国も旅する。監督が幼少のときに命を救われたのが花田ミキさんであったという。その恩返しの意味もあって制作したとある。

 『命を阻むものは全て悪 花田ミキという生き方』という評伝を書いた松岡裕枝の本もある。

 

 急に花田さんのことを思い出したのは、親父絡みでだった。若き親父は出征して、上海から上陸すると、武漢三鎮を攻略し、南昌で負傷して帰還したことはこの前書いたが、それから広島の陸軍病院に入院し、弘前の病院に転院した。右足の腿には年老いて一緒に温泉に入ったときも見るが、大きな傷跡が65年してもまだあった。そこが迫撃砲弾が近くで炸裂して、受けた傷跡で、人事不詳となり三日三晩、奇跡的に助かるが、後遺症で歩行も困難で傷痍軍人で帰還した。その弘前の病院で親父を献身的に看護したのが花田さんで、互いにそれは覚えていた。花田さん自身も、その後に従軍看護婦として中国戦線に行って、病気で帰還していた。

 戦後、親父が青森でケーキと喫茶の店を始めて、商売で成功したとき、花田さんは、県庁におられ県の衛生の仕事もされていたときで、そこから近いうちの喫茶店によくおいでになる。わたしが高校生のときに、親父は親しげに話していた。そして、わたしに花田さんと紹介していた。すごい人だろうと、毎日のようにコーヒーを飲みにこられ、テーブルの上には書類が重なり、一生懸命に何か書きものをしているのだった。わたしが社会に出て、青森に帰って親父の仕事を手伝ったときにもおいでになり、本を熱心に読まれたり、書きものを相変わらずしていた。勉強家なんだなと、まだ花田さんのことをよく知らなかったわたしはそういうお客さんと思っていた。

 

 うちの会社が倒産して閉めてから、両親と浅虫で暮らしていたときだった。地元の新聞に花田さんが出した本のことが紹介されていた。『鎮魂のうた 20世紀におくる』という最後に出された本だった。それまでも何冊も本を出していて、すごい人とは思った。うちの古本屋にもよく入ってきて、知ってはいた。郷土本のコーナーに花田さんの本は必ずあった。

 親父に頼まれて、家に行って、本を一冊買ってきてくれと、金を渡された。家の住所と電話番号を知っていてメモしていた。それで沖館というところにあった花田ミキさんの自宅に訪ねて行った。そのときは、もう寝たきりに近く、高齢であった。玄関のドアを開けたら、介護士のヘルパーさんが身の回りの世話をしていた。ベッドで寝ていた花田さんに、親父の名前を告げたら、起き上がろうとしたが、わたしは、いいですよ、どうぞそのままで、親父が是非読みたいというので、一冊くださいと、ヘルパーさんから受け取った。それが花田さんを見た最後だった。

 

 晩年まで、青森県の看護に尽力され、保健大学が県立でできたが、その前身から学校設立と看護師の教育という、使命を持って生涯をそれに打ち込んでおられた。

 わたしの再婚相手の連れ子の娘が看護学校に入ると、埼玉に行ったが、そのときも、わたしは入学式、戴帽式、卒業式と夫婦で出席して、娘が看護師で働く大きな総合病院にも挨拶に行ったが、何か娘の夢が実現したことを喜んだときも、花田さんのことを思っていた。

 

 いま、コロナ後でもエッセンシャルワーカーで、医療従事者たちの仕事が大変だとみんなが知った。どこもここもいまも人手不足できつい仕事に若い人たちは就きたくない。それがコロナで見直され、いまは女の子のなりたい職業の二位に看護師が上がる。

 娘とは母親と離婚してから同時に娘も離婚し、あれから14年経って、それっきり音信不通で、いまはどこでどう暮らしているものか。男の子はもう中学生か高校生にはなっているのだろう。看護師なら喰いっぱぐれはないから、どこでも仕事はできるだろう。娘もそういう仕事に生涯を捧げてもらいたい。