コロンビア大学での学生たちの反戦闘争で、いちご白書のことがテレビでやっていて懐かしかった。「いちご白書をもう一度」という歌も若いときに流行った。わたしの青春は大学闘争真っ盛りで、全学連とか連合赤軍とか、革命という言葉が飛び交っていて、ベトナム戦争反対のべ平連のデモも安保の六月前は全国的にあった。

 半世紀前のそうした光景が目に浮かんだ。わたしはノンポリで、全学連にはいないで、傍観していた。大学の先輩たちが、教室にいたわたしを取り囲み、セクトに入らないかと誘いに来た。18歳の昨日までは坊主頭の、東京に出て来たばかりの西も東も判らない田舎者にとって、それは学生運動の洗礼だった。何も分からないので、マルクス主義も資本論も読んでいないからと返事した。それはいいよ、いまのベトナムの戦争はどう思う?と聴かれたので、怖いよと言うと、そうだろう、それでいいんだ、怖いのが戦争だ、それをみんなで阻止する。と、若者たちは純粋で、資本主義だけでなく覇権主義に歯向かっていた。

 

 中国では悪名高い文化大革命のさなかで、わたしの高校生のときだが、クラスの友人がどこから手に入れたか、赤い小さな毛沢東語録の豆本を持っていて得意顔だった。当時の左派の学生は紅衛兵と同じく毛沢東にもかぶれていた。高校のわがクラスの文化祭の野外劇は、文化大革命だった。紅衛兵と同じ格好をした仲間たちと、わたしは何故か三蔵法師の役だったのは、坊主刈であったからで、後光も針金に金色テープを巻いて頭に乗せた。孫悟空と紅衛兵の戦いとはマンガだった。いまから思うと、高校生のときから各地で卒業式粉砕とかもめていたのは全学連の影響であったろう。東大の入試は安田講堂占拠事件の後で中止になる。わたしがのこのこと受験で上京したとき、早稲田では受験生たちは両側をジュラルミンの盾を手にした機動隊の谷間を歩かされ、手荷物検査も厳しかった。何か厳重で、怖かった。入学してからも、毎日がお茶の水は学生と機動隊で賑やか。神田解放区になったときもあった。赤軍のよど号ハイジャックもあった。浅間山荘事件もあり、粛清で多くの若者たちが殺され、内ゲバもあって毎日がデモで、勉強どころではない。赤ヘルメットと黒ヘルと乱闘。それに火炎瓶での放火。消防車とパトカーと救急車と、サイレンが鳴り響く。国電の御茶ノ水駅から帰ろうとしたら、機動隊が追い詰めた全学連が駅になだれ込み、線路の敷石を投げたりしていた。わたしも巻き込まれ、追われて、中央線の線路伝いに逃げたことがある。放水と催涙弾で、大学の校舎はめちゃくちゃになり、ついにロックアウトで閉鎖した。学生たちを締め出し、一年半も授業がなく、レポートを郵送すれば単位をくれた。コロナのときのようにネットもないし、遠隔授業なんかないので、バイトばかりしていた。

 

 70年安保のときに大学一年で上京してきたので、戦場に来たようだった。学生たちは、アジ演をし、立て看には中国の簡体字。漢字を略して書くのが流行った。いまもわたしは時々はその簡体字を使っていたりする。

 そういう学生たちもいまでは高齢者になり、学生運動のことは忘れて、歌で思い出す。かつての闘士であった友達も亡くなり、最近も高齢になった指名手配の赤軍メンバーが病死していたと報じられた。

 あれから半世紀経っても、いまだウクライナでは戦争、イスラエルでも戦争、あちこちで火種はくすぶり、世界は大戦前夜のような雰囲気だ。だのに、いまの若者たちには反戦という声を挙げる元気はない。それどころでないほど生きてゆくのに忙しい。かつての若者も老人になり、声を挙げたくても体の自由がきかない。おとなしい老人と若者の陰で政治家は汚職脱税、上は腐りきって、どこの国も腐敗政治で政より金儲けに忙しい。だけど、このままでは済まない。中国もロシアも腐った世界は若者たちでいつも烽火を上げる。いまは犯罪に走る若者たちも、矛先を変えたらいい。かつての全学連なら、国会議事堂を包囲したろう。それがいまはないのが淋しい。