ネットカフェでは朝飯のトーストが出る。それをコーヒーといただき、会計してから外に出たら親戚の旦那が車で迎えにきた。ベンツなのだがどうも調子が悪そうで、変な音がする。途中で何度も停まり、下周りをしゃがんで見た。からからすぱんすぱんと音がする。いまにも停まりそうだ。大丈夫か。国道7号線は青森から弘前に向かう幹線道路だが、弘前公園の桜で激混みだろうと、地元の人しか知らない裏ルートを走る。農道を走り、空港脇道から、黒石に抜ける。渋滞もあったが、ようやく弘前の郊外に来た。車はぷすんぷすん。なんとか、弘前市斎場のあるところまでは無理として、近くでもないが、弘南電車の弘前高校下の駅まで来て、そこでおろされた。香典は彼から預かり、運転手は修理工場までなんとか走ると、そこから引き返した。おろされたわたしは、そこから小走りで禅林街から長勝寺裏の火葬場まで急いだ。なにせスニーカーではなく革靴だ。足の裏が痛い。礼服にビジネスリュックに手には供物。火葬は9時だった。車から降ろされたのが30分前。間に合うか。斎藤の顔が見たい。生で対面したい。その一心で走った。ふうふうと汗びっしょり。久しぶりに焦る。禅林街に来たのも久しぶりだ。太宰の愛人の小山初代の墓参りにペンクラブのみんなと来た以来だ。ようやく火葬場に着いた。10分前だった。

 駆け込むと、遺族は娘息子さんたちだが、何人もいない。棺はまさに窯の前。間に合った。亡くなって一週間が経っていた。黒くなった顔を見る。いまだ死んだという実感がない。悲しくもない。どうしてか、突然の死は納得ゆかず、受け入れられないでいた。おまえ、どうした? 壬生といい、おまえといい、二人仲良く、おれを置いてな、だけど、おれを呼ぶなよ、連れてゆくなよ、そのうち逝くから、そのときはまた肩組んで三人で飲もうな、それがお別れだった。

 和尚さんが来て読経。棺は窯に入り、この世とあの世のゲートは閉じられた。赤いランプが点灯して、ゴウーという音がする。

 遺族控室では、お父さんの知らない顔を話して聴かせた。子どもらから見る父と、友人から見る父の姿は違った。酒飲んで、虎の檻に入れられた武勇伝も教えた。義母との確執もあったが、それもわたしが間に入っていた。義母さんから電話で頼まれたことも話した。どういうことになっていたかみんな子どもらは知らないでそのときのことを聴いてきた。義母さんには、時代が変わった、本が売れないことを話した。印刷屋も出版社も書店も古本屋も大変なことを伝えた。その中で彼はなんとかやっていた。どこの出版社も同じだった。

 そういう思い出話をしていて、呼び出しの電話が鳴る。骨上げに向かう。前に冗談で、おまえの骨はおれが拾ってやるからなと言ったのが本当になる。言霊ってあるのか。危ない。先週、わたしに彼からかかってきた電話で壬生の死んだことを伝えてきたとき、次はおれだと彼は言っていた。それから一週間で自分が亡くなるなんて想像もつかなかったに違いない。

 彼の骨を拾う。頭蓋骨だけが大きかった。それがそのまま崩れないであった。歯はなかった。歯医者に行けよと何度忠告したことか。健康一番は歯からだよ。言うことをきかないでばかやろうが。

 

 車で葬儀場のセレモニーホールへと向かう。前庭の桜は満開から散っていた。あまりにも有名な西行の願はくは花の下にて春死なむというのが実に合う。あまりにもできすぎている。

 葬儀場にはコロナからお焼香だけの人が次々に列席してはお悔やみを述べて帰る。そういうスタイルは定着してきた。遺影は、いい顔の彼が笑っている。背景に書棚。北の街社の事務室で、東奥日報社の新聞に前に載ったときの写真のようだ。次々に知り合いが来る。何十年ぶりかという同人仲間の渋谷聡、高木保さんも久しぶりだった。ペンの仲間たちもやってくる。

 和尚さんの読経と、とり越し法要に、親しい人たちが残り、奥様の十七回忌も一緒にやると、奥様のお位牌と遺影が仲良く並べられていた。わたしは何かあればと受付も手伝う。若い人たちばかりでは判らないこともある。いろいろと聴いてきた。

 何か待ち時間に音楽がいるなと思った。斎藤のよく好きでカラオケで歌った荒木一郎の「君に捧げるほろにがいブルース」を流したらよかったか。彼は一人自宅で死んだとき、風呂上りに好きな音楽をかけて、まさにコーヒーを飲みかけて、心筋梗塞で倒れていたという。それがこの歌にはぴったりだった。奥さんもわれわれの同人仲間だったが、亡くなられたときにもよくこの歌を彼は歌っていた。おい、奥さんのところに行くなんて歌うなよとわたしは窘めたことを思い出した。

 

 …淋しさに一人飲むコーヒーは…


BYE BYE 君 すぐに行くよ
BYE BYE BYE MY LOVE 君と同じとこへ
BYE BYE MY LOVE 夏になれば
君のいる処へ

 

 葬儀は終わり、みんなそれぞれ帰り、わたしはぶらぶらと歩きたくなる。どこに行くということでもないが、土手町の中三デパートに従妹が勤めているので、顔を見に寄って行こうと思った。花見で混んでいると思ったが、弘前市街は、お城の周辺だけで、なんとあちこち閉めている。まだ昼飯は食べていなかったので、どこかで腹を満たそうと思っていた。蕎麦の美味しい高砂は少し遠い。もう足が痛くマメもできて、歩きたくない。知り合いの和食屋、菊富士に行ったら、閉めていた。弘前も6年ぶりで来た。中三デパートで従妹と会って話した。上の蕎麦屋も閉めていたし、ジュンク堂書店もテナントで大きく入っていたのが、撤退すると書かれていた。

 そこから飲食店を探してお濠の方へと歩いた。古本屋の成田さんの店も閉めていた。もう年で80歳は過ぎたろうから商売はやめたのだろう。お濠の桜並木だけ写真に撮った。中には入らない。何十回となく花見は来ていた。いまはそういう気分ではない。土淵川の傍にびっくりドンキーがあった。そこはやっていた。弘前に来てハンバーグか。どうしてか、景気はあまりよくないようだ。それから駅まで歩く。ヨーカドーも撤退するとか。その並びに前の仲間の小山古本店は開いていたが、店主は留守でおばあちゃんが店番していた。息子は夕方から交代で来るけど、昼間はわたしが店番と話していた。店番は好きなのだと、昔からの古本屋が開いていたことが嬉しい。

 

 また満員の奥羽本線のローカル線で新青森駅に向かう。そこから新幹線で東京駅まで。乗り換えて平塚に着くのは11時過ぎる。息子が車で平塚駅に迎えに来るとLINEで連絡があった。車窓から見る八甲田山と岩木山、津軽平野、いいところなんだが、このたびもみんなから、青森に帰ってこいよと口々に言われた。残雪も見たが、線路脇にも水仙が群れ咲いて、どこかしこ桜が満開だった。そんなふるさとに帰りたくなる。いまはできない。好き勝手なことをしてと叱られても、暗い北国から南へと羽根を伸ばしたいのだ。今度は夏前に来よう。そのときまでに追悼号はどうするかみんなと話したい。お世話になりましたと、斎藤の二人の娘さんからメールが来ていた。生きているものはいつも忙しいのだ。だけど、本当に死んだのか? まだどこか信じられない。