毎年、小田原に桜の花見には行っている。平塚から電車ですぐなのと、買い物がてら行くのだ。今年の桜は寒さと雨もあって、昨年より二週間も遅れた。確か、このブログにも書いているが、去年は早かった。三月に花見をした。ブログはだいたい一週間遅れでアップするから、書いたのと行ったのは一週間前ぐらいなのだ。

 このブログが出るころにはすっかりと葉桜になっているだろう。これを読んで、行ってみようでは、話が違うとなるから要注意。

 日曜はとみに混むと判っていても、連日の雨でずっと出られなかった。ようやく曇りで雨は夜に降るとか。それで、小田原の桜は満開とあったので、いましかない。三日見ぬ間の桜かなだ。

 電車は満員。小田原駅もすごい人。予想通りだった。ぞろぞろとお城に向かって歩いている。飲食店はもう入口に行列ができている。それも予想していたので、わたしは平塚のスーパーから弁当と串団子とドリンクなどを買ってきていた。たぶん、入れないし、並んで待つのは嫌だから。

 お城とお濠の桜はすごい。花より人だ。ひしめきあっている。押すな押すなでお濠に落ちるまではゆかないが、人の頭より見えない。朱塗りの橋を渡って城に入るのは、弘前公園と同じ。広さは弘前公園のほうが広く、桜の本数も弘前は日本一だろう。毎年、二百万人の観光客が押しかける。太極拳の仲間が今年は弘前の花見旅行に行きたいがと、わたしに相談してきた。個人旅行ではホテルも温泉宿もいっぱいで取れないかもしれないと、東北新幹線もきっと切符をとるのは難しいので、秋田新幹線で行って、大館のビジネスホテルに泊まり、そこから弘前まで奥羽本線の電車で40分くらいで行くから、そのほうが予約が取れると教えた。車も駐車するところがないくらい混む。

 小田原も同じようなものだ。城の中では、おでんの露店が並び、骨董市もやっていた。おでんは、小田原は蒲鉾が名産なので、おでんで一杯となる。骨董市もすごい店が並ぶが、かつてはわたしも買いまくったものが、いまはモノはいらないと見るだけ。若い人たちはアナログディスクに群がっている。中森明菜だとジャケットを見て話していた。いまはレコードブームだから、ジャケ買いの若者もいるだろう。

 武者の恰好でいろいろと歩いている。鎧兜も重いだろう。それと、坊さんたちがいっぱいいて、稚児さんのかわいらしい行列があった。大きな白い象もいる。そうか、月曜日はお釈迦様の誕生日か。花まつりと書かれていた。甘茶でかっぽれ。その甘茶のことを和尚さんがマイクで話していた。ティーバックを用意しましたので、お家に帰ってから飲んでくださいと。いまはティーバックなのかと笑う。その和尚さんが、「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」と、劉廷芝の漢詩を持ち出して講和していた。桜は毎年満開だが、人は老いる。前に二人で小田原城に来たあの人はどうしているだろうなと、ふと四年前のことを思い出す。

 お城はどこもいっぱいで、座るところもない。歩いていたら、小田原郷土文化館という古い建物があった。平素はあまり訪問する人もいないのだろうが、花見となると人は入る。考古学資料から、現代と言っても、昭和だが、その小田原市の歴史民俗史料が展示されている。いままで何度も来ているお城だが、そういう建物があるとは見過ごしていた。ゆっくりと歴史の勉強をする。床が板で黒光りしていて、ぎしぎしと鳴るのが懐かしい。なにより怖いくらい板の床がよかった。会館前の石段でトカゲが二匹、喰うか喰われるかの喧嘩をしていた。それが面白いと、家族で写真を撮っていた。わたしも頭に噛みつくトカゲを撮る。

 二宮尊徳の報徳神社もちらりと見た。何度も来ているが、参拝に並んでいる。その前の藤棚のところのベンチなら座れるだろうと、行ってみたら、空いていた。みんな弁当を食べている。わたしも座って、池の鯉と鷺を眺めて助六を昼飯にいただき、花より団子だ。

 

 そこから今度は武家屋敷の通りの桜並木を見ようと歩く。そこも何度か見ていたが、とにかく人が多い。かまぼこ通りを歩いたら、かまぼこ屋が軒を連ねるが、そこに大勢の観光客たちが、ダンボール箱で作ったトレーを首から各々下げて、スタンプラリーみたいにしているのかなと見たら、ポスターに「さくら新酒めぐり」とあって四月中の土日だけ前売り3500円で、12箇所の酒蔵の新酒とかまぼこが飲み食いできるとある。夫婦やカップルがぞろぞろといろんな店に並んでいる。いいなあ、飲める人たちは。そういうイベントは当たったようだ。

 そこからすぐが海で、バイパスのトンネルを潜ると荒れた海。釣り人が一人いた。多くの観光客たちが、波が来ると逃げていた。わたしもあわや足をすくわれるところであった。

 また歩いていて、伊藤博文の別邸滄浪閣の跡に出る。銅像があり、前に探しにきて判らなかったが、ひょいとそこに出た。

妙経寺という門前に由来の看板。そんなのはきっと見る。ここの寺が明治の探検家の郡司成忠の終焉の地だったという。幸田露伴の兄弟とか。郡司で思い出したが、青森県の太平洋で遭難して、多くのクルーが死んで、彼は八戸の病院に入院した。責任とって自殺も企てたと、何かの本で読んだ。歩けば、いろんな歴史と出会う。

 御幸の浜も何度か来ていたが、外人さんたちも大勢いた。そこでしばし休憩。その近くの駐車場にみかんの無人販売所があったが、いまはなかった。来たら寄って百円の袋を買った。

 西海子小路を歩けば、昔の別荘があり、小田原文学館もある。そこの桜並木が綺麗で毎年見に来る。文学館は三度目なので、中庭だけ。そこの北村透谷の石碑に、墓がこの街の高長寺にあるというので、墓フェチのわたしは墓参りもしたいと、駅の北側まで歩いた。途中に別荘を改造した料亭があり、その建物も保存されているのかと見に寄った。昔の大名の駕籠に似せた送迎車があり、ついこれは面白いと写真。息子に送ってやる。

 寺の墓地には立札で北村透谷の墓とあったので、探すこともない。戦後、この生まれ故郷の寺に移されたというが、東京の白金台にあった墓一帯は空襲で焼けて、きっと墓も疎開したり移されたりと、そういうこともあったろう。北村門太郎と書かれていた。手を合わせて、25歳の若さで亡くなった詩人に、わたしも詩がうまくなりますようにと、別に詩の神様ではないが拝んだ。それにしても、透谷の三倍も長生きして、いまだちゃんとした詩集一冊も出していないわたしは、うだつが上がらない。

 

 そこから駅に歩いた。いろんな線が交差していて、ロマンスカーと思ったのが、北千住行きのメトロ? 小田急から新幹線、東海道線と賑やかで、踏切を出たところの小さな駅が緑町。箱根登山電車のかわいらしい駅がある。駅前に戻り、まだ早いが晩飯と、和食レストランに入る。前に入ったところだ。そこでポイントでただでドリンクバーも飲み、久しぶりの外食。電車で平塚に帰ってくるが、買い物を忘れた。もうすっかりと暗くなり、一日遊んだ。この日の歩数は18000歩とあった。