三月末に元NHKのアナウンサーの鈴木健二さんが逝去された。95歳で老衰だという。この老衰が最近は多いというのも長寿になってきたからだろう。一番安らかな死は老衰と聴いた。

 鈴木健二さんは青森県と関係がある。東京生まれなのに、旧制弘前高校から東北大学に進学したので、青森の弘前が青春の街であった。その恩返しのつもりで、後に青森県立図書館長を引き受けた。熊本にも縁がある。最初にラジオのアナウンサーで赴任したのが熊本放送局で、その縁で、熊本県立劇場館長もされた。東北と九州と北と南に縁があるのは面白い。

 青森県の仕事では、他に青森県文化アドバイザーもされていた。われわれ青森のペンクラブは、よく青森県立図書館と同じ建物の文学館にもよくご挨拶に三役がお伺いした。そのときはわたしはまだ理事であったが、役はなかったので、初代会長と副会長は鈴木さんと懇談したのかもしれない。

 

 鈴木さんが青森にいたときは、個人的に青森塾というのをやられていた。倉本聰さんが北海道の富良野で脚本家と俳優の養成の塾を開いたように、地域のために縁があってそういう仕事もしていた。毎回、30人くらい塾生を集めてやられていた。一年コースなのか。その第何回生であったか、向学心旺盛なわたしの親父が、そこに申し込んだ。なんでもしてみたいと、あれこれの会に老後は入っていた。講演会というとすぐに駆けつけた。割合と図々しく、わたしが面白いからと勧めた森本哲郎の本を読んで共感し、東京にいたときは、その講演会に聴きに行っただけでなく、なんと楽屋に押しかけて、森本さんと一緒にお茶を飲んで話してきたという。森本先生と勝手に呼んでいた。それと五木寛之の本もよく読んで、やはり講演があれば駆けつけて、やはり楽屋裏で話したという。

 そんな親父だから、広報で知ったか、さっそく申し込んだ。だいたい、そういう勉強会に参加するのは、専業主婦が多い。しかも四十代と子育ての手が少し離れた年代だ。男性もいたが、少数で、青森塾の集合写真を見たら、わたしが入りたいと思う女性たちの間にちゃっかりと一番の高齢の親父が囲まれて、鈴木先生の隣に座っていた。野外活動もあって、バスでみんなでどこかに行く。そのときは、浅虫の我が家に女性たちが、親父を車で迎えに来ていた。「お父さんおりますか」と、顔を出したら、わたしが代理で行きたかった。鼻の下を伸ばして、ほいほいと参加していた親父が羨ましい。

 鈴木先生よりはひと周りは年上の親父は、先生によく、大正ロマンの人と呼ばれていたという。なんといっても80歳過ぎて、勉強会に参加しているのは、うちの親父が一番の長老だろう。鈴木先生は昭和一桁生まれだから、大正生まれには何か畏敬を感じていた。戦争に行った年齢とそうではない年齢がそこで線引きされる。

 

 親父の本棚には鈴木先生の著書が多数あったが、ボケもあったので、古本屋に行くと、あれば買ってくるから、『気くばりのすすめ』は当時のベストセラーだったが、それが本棚に五冊もあった。また買ってきたと、叔父に見せたら、そうかと呟いていた。

 

 高齢になっても、親父の好奇心はあり、常に外に出てゆくというのは、生き方としてはわたしも見習うところだ。家にはいない人で、バートウォッチングの会とか、自然と親しむ会とか、青森の山歩きもよくしていた。カメラが趣味であったから、カメラを携えて、写真も撮って歩いていた。ネガフィルムだけでもダンボール箱にひとつぎっしりとあった。それの貴重な古いものは、県の郷土館の親しくしていた人に見せて、いらないものは死後処分したが、蔵書はわたしの古本屋でみんな売ってしまう。鈴木先生はそんな生き方を後押ししていた。老後生活は引っ込んではいられない。どんどんと若者に負けないように、出てゆく。一生勉強だ。

 

 新聞で訃報を知り、テレビでもやっていたが、きっと青森塾の生徒たちもみんな惜しんだことだろう。何百人という教え子たちもいまは老齢になり、老後の生き方を実践しているに違いない。