いつものように、掃除のバイトの後にショッピングセンターの中のマックでコーヒーを飲みながら、ブログを書いていたら、青森の出版社で文学仲間から電話がきた。いつも電話が来ると何事かと思う。それでのっけから、「誰か死んだか」と聴いた。彼はそうきたので、ふふと声を出して、われわれの同期で同い年の文学仲間の古川壬生が死んだと言ってきた。なんと? 一瞬耳を疑う。だけど、しばらくしてから、病後の彼は杖をついて、ようやく歩いている姿を思い、受け入れる。

 またわたしの不吉なことを書いたブログが当たる。一週間前に書いて、この日の朝にアップしたブログが『七十過ぎたら四人に一人はいなくなる』というタイトルで、今度は誰が死ぬのかと、周囲はバタバタと亡くなっているので、そんなことを書いた。われわれ同期は四人はいるが、揃って年恰好は同じで、ずっと一緒に小説を同人誌で書いてきた。それは昭和59年からだから、実に40年のつきあいなのだ。30歳過ぎからつきあっている。その間、同人誌も三回変わる。『吶喊』というのが最初で、わたしは途中から参加した。そのメンバーに壬生がいた。若き文学青年たちと、青森の演劇小屋だびよん劇場に集まって、そこの主の牧良介さんも同人仲間で、みんなで酒飲んでわいわいと合評会をした。壬生と北の街社の出版編集者と、そこにいたもう一人と四人がいつも仲良しで誕生日も昭和26年の6月7月と近く、一緒にいつも飲み歩いて、文学談義もし、カラオケで歌った。そんな彼らは、わたしが出稼ぎで上京するというときに、古本屋にこぞって来て、「どうしても行くのか、行くな」と、わたしがいなくなると飲み仲間が減ると、寂しいからと引き止めに来た。10年前に、わたしはそれから東京千葉神奈川と転居しながら、たまに青森に帰ってから、彼らとまた肩組んで酒を飲むのが楽しみであった。同人誌はいまも続けていて書いた短編を先日も送った。それが春に本になって出せるのに、壬生の作品だけが来ていないという。編集人に聴いたら、先週に、もう書いたので送ると言っていた矢先に亡くなる。それだから、きっと小説か詩か、彼のパソコンに入っているのだろう。それは喪主の奥様からパソコンを借りて、そのうち出さないといけない。それが彼の絶筆になるのだろう。突然死なので、きっと彼も自分の死ぬことを考えたこともないし、家族も驚いたろう。そのパソコンはパスワードがかけてあれば開けないだろうがと、その後の話も電話で編集者と話していた。

 

 電話で聴いてから、わたしは一日ボーとしていた。手につかない。本も読めない。何もする気がない。ともかく、葬式には近いし再来週の土日には青森に帰る切符もとってある。葬式には行けないが、自宅にそのときは線香を上げに行ってこよう。彼の家にはよく飲めば泊まりに行った。わたしの自宅が浅虫温泉のときで、タクシーなら高くつくので、彼の家の広い和室で大の字になってふかふかの布団で寝た。

 

 壬生の結婚式に出たときのことも思い出す。だびよん劇場では、彼の書いた戯曲で一人芝居を奥様が演じた。それからのつきあいだろう。新婚所帯にも手作りの満州餃子を差し入れに持って行って、これぞ男の料理とどでかい餃子は笑われた。うちの古本屋から近いところにアパートがあってよく遊びに行った。彼が失業したとき、うちの古本屋でバイトもした。そのバイトの店番で書いたのが、うちの林語堂の名前そのままで古本屋が舞台のいいラジオドラマだった。それがNHKで賞をもらい、それからはずっと新日曜名作座に脚本を書き続けて、それが彼のライフワークになる。声優には竹下景子さんがなったうちの古本屋の物語のカセットテープはお客さんにもダビングして差し上げた。あれはいまどこにあるのか。

 

 そんな彼が亡くなる。みんなと電話とメールでやりとりして、相談もした。ともかく、当日は行けないので、花屋にも手配した。弔電を送ろうと、それから書いて、何度か手直しもした。なにから書いていいか分からないが、ふっと宮澤賢治の『青森挽歌』が思い出された。それを借用して弔詞にしようと。ところでどこから送ればいいのかと、ともかく郵便局に行ってみよう。本局の窓口で女性職員さんに弔電と言ったら、はっ?と首を傾げる。電報ですと言うと、それも分からない。上司を呼んできて、レタックスですねと言われた。そうか、弔電という言葉も死語か。

 こちらはそろそろ桜は散っているが、青森はこれからだ。わたしは再来週に青森入りするときは桜は満開だろうか。郵便局の机に向かい、小さな震える字は悪筆だが、レタックスに弔詩を書いた。

 

 

 

 

弔 詩

畏友壬生へ

この年になると
ひとりひとりといつのまにかいなくなる
壬生もまた
こんなさびしいひとりの死出の旅路を

(たったひとりで通っていったろうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たったひとりでさびしくあるいて行ったろうか)

遠くにいて訃報に接し
本も読めずなにも手につかず
それでも壬生を送る言葉は

(かんがえださなければならないことは
どうしてもかんがえださなければならない)

  残酷な四月と詩人はうたう
ようやく残雪の解けた津軽で
これから桜が咲こうというのに
壬生よ
きみは見ないで逝くのか

みんなみんないなくなる
残されたものらで
きみを
とことん今夜は呑もうじゃないか
肩を抱き合って飲む酒の
傍らにいないから手の置場がない

おれたちは
いつも同期の桜だったな
ひとり先に出撃するなよ
待っていろよ
ひとりひとりいなくなり
いずれみな散ってゆく桜だよ

          喜多村拓

          2024.4.12

 

 

思い出した。追悼のためにいまこれを書いている。壬生はシンガーソングライターでもあった。丸眼鏡をかけた顔はどこかジョン・レノンに似ている。フォークブームの終わりころに、彼はレコード会社からLPのアルバムも出した。それがネットで見たら、いまはCDにもなっていた。作詞作曲は500くらいあると言っていた。われわれは、彼の病気回復後の復活コンサートを仲間と共に新町商店街の和菓子屋の跡でやった。ファンたちも駆けつけた。彼はふたたびステージに立った。ギターを手にがなりたてた。

以下は、タワーレコードやディスクユニオンのネットに書かれた壬生の紹介だ。

 

古川壬生。青森県出身のシンガーソングライター。本アルバム「壬生」は1978年作品。発売当時のニューミュージック全盛の音楽シーンとは大きくかけ離れた作品で、情念ロック、アングラフォークなどといわれる。本州最北の日本海、じょんがらと地吹雪…….

 

過剰なる自意識の放出=自主制作盤の凶器にして極致とも言えるアルバム遂に復刻!

友川かずき、三上寛を産み落とした津軽から、恐山、イダコ、ネプタ、化粧地蔵、、、この世とあの世を通低するための呪的機関を唄わんとする陸奥(みちのく)のオルフェウス(吟遊伶人)=古川壬生が残した1978 年の超激作!衝撃の初CD化!
詩人でもある壬生が三歳でこの世を去った弟(壬生)の皮膜を生きるために死者を騙る。歌が念仏となり叫びとなりこの世を乱舞しあの世へと吸い込まれる。あまりにも強烈なフリンジ・ミュージック。

 

 壬生への最大のオマージュがそこにはあった。