定年を迎えて、わたしの仲間たちはもうとっくに老後生活に入っている。わたしも古本屋のときは、息子に任せて、60歳で勝手に定年だと、そのお祝いをしようと提案したが、息子もわたしの代わりに入れた新人二人も知らん顔。まだ逃がしませんというツラっとした顔だったので、わたしが中華料理店を勝手に予約し、花束もどうせ誰も用意しないだろうからと、自分で造花を百円ショップで買って、みんなで会食したが、誰も定年退職を認めない。花束贈呈は自分で自分にという自作自演。今日で終わりということは自分で宣言しただけ。それでも息子には役員報酬はなくして、店の負担は減らした。それから東京に出てくるまではボランティアで古本屋を無給で手伝った。休みもないので、年中無給と自分では周囲にボヤいていた。

 その辞めて隠居する話を吹聴して回ると、みんなは、まだ若いのにとか、退屈でしょうがないよとか、まだまだ働けるのにとかいう。実際には、仲間で同年代は、天下りもいたが、みなさん週三くらいで働いていた。正社員では退職したが、それからは臨職で給与はどっと下がるが、それでも会社の末席で働いて暇潰しをしていた。

 わたしも上京した10年前からは、出稼ぎと、仕事もいろいろとしたが、それは旅行代金を稼ぐためであった。年金だけでは生活ぎりぎり。遊びたい年齢でもあるので、まだまだ引っ込んではいられないと、アマゾンであれこれ売ってアパートで内職自炊、パートで掃除もしたし、警備員もし、学校の用務員もした。それなりに面白かった。東京は地方ではない仕事もあり、時給も高い。いくらでもシニアの仕事はあった。

 65歳から前期高齢者と言われていたが、それが評判が悪いと撤回してからは、いまは、誰も65歳は老人とか高齢者とか呼ばなくなる。75歳からでないと、本当の高齢者とは呼ばないと、そういうところも出てきて、わたしなんかは、もうすぐ73歳になるのだが、まだ現役世代なのだ。政府ももっと働いてもらいましょうと、働くことで、よしんば年金支給を減らせたり、それで体を動かして、健康にいいとなれば、医療費負担も少なくなり、人手不足をシニアで埋めて、日本経済は回してゆけると、いいことづくめで、その思惑で、われわれ老人はどうやら死ぬまで働けと言われている。

 

 と、わたしもいまもバイトはしているが、それも旅行や遊びの資金にしようということで、息子たちの生活援助もそろそろ手を引こうかと思っている。というのも、青森の息子たちの家屋敷がどうやら売れそうなのだ。不動産屋から電話が来て、月末に契約だとか。そうなれば、家のローンもなくなり、わたしの年金とバイト代から支援することもなくなる。ついで、母親も近くではなく、また復縁はしなくても、一緒に家族で暮らして、わたしはそうなれば、はい、さようならといなくなる。

 

 老後の居場所がいまは問題になっている。いま、これを書いているのは、掃除のバイトの後に、駅の南口にあるマックの地階なのだが、そこでコーヒー飲んでブログを書くのが習慣になっている。雨なので、どこにも自転車では走れない。これからどこに行こうかとなる。行くところは決まっていて、ららぽーとだとか、図書館とか、ファミレスとか、スーパーのイートインなのだ。

 昨日は天気もよく暑かったので、総合公園に歩いて行って、ごろんと芝生の上に寝転んで、桜の下で読書となる。青空なのに、顔に水滴がかかる。おかしいなと思ったら、桜の花をついばんでいる小さな鳥が何羽もいた。うぐいすだろうか。そのおしっこかもしれない。糞も落ちたら、顔に塗れば美白になるか。春休みの日曜なので、多くの家族連れが、花見の宴会をしていた。テントを張り、シートを敷いて、酒と団子。こっちはドリンクは持参したが、昼飯はなし。日本庭園もあって、そこのベンチに座って読書の続き。池の鯉と甲羅干ししている亀を眺めていた。

 平塚はこれからは暖かく天気がいいと海もいい。ちょっと電車で横浜、小田原、鎌倉もいい。山も海も自然の中で本を読み、写真を撮る。わたしの趣味はいっぱいあるから救われる。本もそうだが、詩を一日一詩と決めてアップしたり、ブログも毎日欠かさない。いままでライブラリーとして録音してきた音楽もイヤホンで聴きながら、ウォーキング。温泉巡りもして、旅行も趣味なので、海外と国内もこれからは毎月したい。カメラは当分はスマホでいいが、毎日なにかしら撮っている。それもブログと詩に添えるもの。スーパーや八百屋ではいつも何かないかと散歩も趣味だが、それで買ったもので料理、パンとお菓子も作るのが趣味で、息子が楽しみにしているので、昨日もおからクッキーを焼いて、みたらし団子ならぬ、醤油と砂糖でゴマ入れてみたらしパンを焼いた。太極拳は週に一度だが、それも暇なときは部屋でする。公園でもどこでもできるからいい。

 

 そういう趣味のない人たちは老後は地獄になる。なにもない空間に放り出される。それが定年難民というのだそうだ。何をしていいのか、どこにいたらいいのか、自分を持て余す。居場所は大事で、ショッピングセンターに行っても、椅子はそういう老人で埋まっている。図書館もいっぱいで、新聞は取り合い。これから暑くなれば、わたしはボードを持って海に行くから、それで一日潰れるが、そのサーファーも高齢者がいる。日焼けを裸でしているのは老人もだ。

 

 これからのビジネスは老人相手の居場所提供が流行るのではないのか。ブックカフェもその意味ではいいかもしれない。年金生活だから、高い料金は駄目だが、ネットカフェも、一時間いくらだから、もっとマッサージチェアを揃えて、老人たちに来てもらう。カラオケもわたしはシニア割りの会員カードをもらったが、昼間に老人たちはカラオケボックスも利用する。シニア専用のコーヒーショップもあればいい。話し相手がいつでもいるという出会いの場にする。団塊の世代がどっと老人になり、行き場を失うと、その受け入れの場はもてはやされるかもしれない。これからのキーワードはシニアだ。若者相手の商売よりは儲かるかもしれない。