息子は古本屋が倒産した後に、生活を支えるために、出稼ぎで群馬県のスバルの自動車組み立て工場に臨時工で住み込みで行った。そこなら就職祝い金もあり、賞与もあり、寮と食事もつく。給与はよかった。それで、借金もあるし、家のローンもあり、生活費の仕送りもしないといけないと、何年かは苦労したようだ。工場には外国人の出稼ぎ労働者も多かったという。北関東の街は、そういう工場と海外からの移住で、街は外国のように看板も横文字なら、まるで異国のように外国人ばかりが歩いている。そこにクルドの人たちもいて、何か地元とトラブルがあったのか、ネットでは差別批難されているようで、それは、受け入れ体制の問題もある。郷に入ったら郷に従えとは言うが、その指導もちゃんとなされていないから、ルールとマナーが問われたりする。それはわれわれが海外に行っても同じことだろう。その国の習慣もあるから、日本と同じことをしたら、白い目で見られる。台湾では地下鉄内でペットボトルの水を飲んでもみんなから批難され罰金刑だ。車内は飲食禁止なのだ。外国人は知らないで車内で電話しているが、それもわれわれからしたら白い目。

 難民認定も日本は厳しいし、国籍取得も厳しい狭き門で、保守的なのは昔からで、鎖国していた江戸時代からだろうか。いや、江戸時代のほうが、朝鮮通信使たちを手厚くもてなしていた。その前は帰化人もまた技術を教えてくれる大陸から渡ってきた人たちで重宝されてきた。どうしてか、明治から、富国強兵で、日清日露戦争で勝つと、うぬぼれて急にアジアでも一等国民と偉くなる。いまも日本は特殊な島国のガラパゴス国民で、どうも保守的で開放的ではないところがある。外国人と結婚すると言ったら、親は反対するだろう。まして、会社に入れるとなると抵抗して、近所にいてもつきあいもしない。言葉の障壁もあるが、風俗宗教習慣の壁もある。難しい日本語をマスターするのは至難の技で、それを言えないと仕事もできないのは、閉鎖的な会社で仕事もグローバルではないのだ。最近になってどこかの県では人手不足解消のために外国人のために資格試験を多言語で受けられるようにしたとニュースにあった。

 

 この前、叔父の葬式で青森に帰ったときに、その長男が喪主であったが、従弟の五人の子供らはみんな結婚して孫もいるのだが、わたしは小さいときより見ていないで、ぞろぞろと大きくなって、家庭持ちなので驚いた。誰が誰か判らないくらいだ。それより、驚いたのが、父親はあまり海外には行ったことは聞かないが、五人の子供らがみんな国際的なのだ。長男は以前、韓国の女性と交際していて、行ったり来たりしていて、叔父はわたしに相談し、向こうで所帯を持ったらどうしようかと話していた。妹二人はまたバックパッカーのようで、オーストラリアからアメリカ、ヨーロッパ、アフリカと海外旅行ばかりしていて、ジョージアとかアゼルバイジャンにも滞在していたというから、女の子は度胸がある。二人の子供のうち一人はオーストラリアのブリスベンで暮らしていて、もう一人はフィリピンにいるという。なんと国際的な一家なのだ。どこからそういう自由奔放な生き方が出てきたのか。青森で生まれ育ったにしては保守的でないところが素晴らしいと賞賛した。

 

 そんな家族は稀で、うちは近商人の末裔なので、その行商の血があるからか、それでも従妹たちはそんなに海外に出ていない。わたしより年上の親戚では二人が東南アジアに住んでいたことがあるぐらい。

 正月に孫娘たちとスポーツカフェで飲んだが、その21歳になる大学三年の孫娘は経済学部で、就活はしているが、ハングル語を勉強していた。卒業したら、韓国と日本の企業の橋渡し的な仕事をしてみたいと、来年は韓国で暮らすようなのだ。いまや、日本ではいい仕事に就けないで、給与も安いからと、アメリカやヨーロッパに渡る若者たちも多いだろう。時給千円少しの日本に比べたら、アメリカは時給4000円と聞けば、それはやりがいはあるが、物価もそれなりで、アパートなんか借りられないし、ラーメン一杯が3000円以上で、やはり生活は楽ではない。それでも海外に行って仕事をするというのが素晴らしい。

 

 昔の日本も移民で、ハワイやブラジルだけでなく、世界のあちこちに出ていった。秀吉の時代には東南アジア各地に日本人村を作った。ベトナムのホイアンに行ったときは、日本人が作った橋を見た。ジャカルタやボルネオのサンダカンでも日本人の墓を見たり、タイのアユタヤの山田長政の日本人村の跡にもサイクリングで行ったことがある。

 

 いま、少子高齢化で、人手不足と言いながら、移民政策はとっていない日本だ。なかなか、移住も難しく、受け入れないところがある。アメリカは移民で伸びてきて、これからも人口は増えて、国力はさらに増すという予測だ。寛容なダイバシティの考え方を昔からしてきて、それは人種差別もあるだろうが、まだ社会は受け入れてきている。日本はネットで拒絶、ヘイトスピーチ、相手の国のことを何も知らないで、ただ洗脳されて異文化理解と協調性がない。自民党の議員も、かつては2000万人くらい外国人を受け入れないと、日本は経済的に衰退してゆくと警告を発していた。保守的な外国人嫌いのことをゼノフォビアというのだそうだ。そういうマクロファージみたいな人はどこにでもいる。異物、外敵を入らないように攻撃する。それも病的に視野が狭いのだ。それも欧米の白人に対してはしない。どこかに劣等感もあって、ルサンチマンの裏返しなのか。

 

 うちの両親も満州国という外国に新婚時代に移住して、戦争がなかったら、わたしもそこで生まれて、中国語を話していたかもしれない。戦後はみんな引き揚げてきたが、600万人が海外にいたというから、日本人も保守的ではなかったのだ。フロンティア精神はあった。親父は中国語とロシア語も少しは話せた。シベリアに抑留三年いたからで、満州にも朝鮮人とロシア人と五族協和で表向きは仲良く暮らしていた。おふくろの手料理で得意な満州餃子は中国人から習い、ボルシチはいまのウクライナの人から近所にいたので習って覚えた。おふくろの味も国際的であった。

 わたしもそうだが、英語すら話せない。恥ずかしいが、世界的に日本はそうなので、これから教育で世界に羽ばたき、受け入れる土壌を、反なんとかという教育をする国もあるが、その逆で国際協調を学校で植え付けたい。