図書館にはわたしもそうだが、毎日「出勤」しているご老人たちがいる。挨拶もしたことがないので、顔は判るが、名前と素性は知らない。わたしは二日三日に一度だから、そうでもないが、彼ら彼女らは毎日のようなのだ。行くところがないので、老人の居場所では図書館での暇つぶしは金がかからなくて最高だ。

 何人か、ホームレスも来ている。冬と夏は特にか、寒いのと暑いのは外はかなわない。誰でも貴賤なく利用できるのが公共施設だが、ただ、臭いがすごい。どうにかならないかと思う。新聞を読みに、隣に立たれると、わたしは鼻を止める。口で息をする。社会科学の棚の前の椅子に二人がいつも陣取るので、その周辺が異臭が漂う。半径10メートルはすごい。風呂に入っていない。うちに連れてきて、風呂に入れて体をこすってやりたい。ついで、ボロボロの汚い服も、わたしのを上げたい。靴もサイズが合えば穴の開いたのはなんとかしてやりたい。だけど、そんな余計なことをしても、嫌がるだけで、案外と体の垢を洗い落としたら、病気になって死ぬかもしれない。そんな本を読んだことがある。何年も風呂に入っていない人をすっかりと綺麗に洗ったら、病原菌が入って死んだとか。垢は病原菌が入らないように、体を保護していたのだ。それか、ウイルスもその臭いで即死するとか。

 ホームレスと言っても、大学は出ていて、昔は会社の社長さんであったかもしれない。横文字のジャーナルをどっさりとバックナンバーごと出して読んでいた。英語がすらすらと読めるのだと驚く。博学のホームレスがいてもいい。それが前は本も出してベストセラーになったことがある。そういう落ちぶれた生活も主義でしている人もいる。世捨て人というと、恰好はいい。こんな腐りきった世の中にすがりついて生きているわたしらのほうが、生き方としては惨めかもしれない。

 

 別の高齢の女性は、毎日来ていて、せっせと週刊誌の記事をノートに書き写している。それが彼女の趣味というより、書くことでボケ防止をしているのか。だけど、そういう無意味な作業を続けているのがすでにボケているのかもしれない。書くとか声に出して読むというのはいいことだ。認知症の先生もそれを本で書いている。

 隣のご老人も、何をしてるものか。数字がびっしりと書かれた紙をひたすら、書き写している。なんの数字なのか、気になり、聴いてみたいところだ。前に同居していた相方も数字がランダムに羅列している紙が束であった。暇なときは、それを眺めて計算して、また数字を並べていた。それはロト6をやっていたので、予想表らしい。相方は精神的な病気であったから、根を詰めてやらないようにとは言ってあるが、そんな無意味なことはやめろとは言えなかった。おじいさんは、それをしているのか。びっしりと書いた数字を写すことに何の意味があるのか。

 

 そうかと思えば、新聞の束をいくつも積み上げて、それは髪がもしゃもしゃの哲学者然とした白髪の人だが、やたらと、ページをめくるのが早い。それで目を通しているのなら、速読もすごい。それとも、そういう病気なのか。読んでいるのか、めくるのに忙しいのか。とにかく見ていてせわしいのだ。

 別の人はぶつくさと本を読みながら、読み上げては書評を聴こえるように話している。隣にいると集中できないで、いらいらとしてくるが、またあの人だと思うから、気にしないようにはしているが、その独り言みたいなのがうるさくてたまらない。

 さらに、せわしく歩き回るじいさんがいる。あちこち行って、人の読んでいるのを横から覗き、新聞を開いたと思えば、また閉じて、別の雑誌を出して読むともなく、書架に仕舞い、うろうろとどこにいればいいのか、自分は誰なのか、判らないような素振りで、それはすっかりと徘徊老人のようなのだ。

 すっかりとおかしいのもいる。人の読んでいる新聞を横取りする。それも常連らしく、みんな知っていて、子供を諭すように、「いま、読んでいるでしょ」と、諫めるのだ。おかしいから、叱らない。そういう人も増えたから、みんな寛容になっている。

 

 みんな何をしているのか。不思議な光景ばかりで、それを見ているだけで謎だらけで、図書館というのは実に面白いところなのだ。