最近は心理学の本などを図書館から借りてきて読んでいる。それは身内のこともあり、自分のことでもあり、いままでも、わたしにかかわる病的な人たちのことを知りたいと、人間の脳とか精神医学の本ばかり読み漁ってきた。それが難しい専門書はいけないが、一般に読める内容であれば、すこぶる面白い。

 今回読んだのは『「ひきこもり」と「ごみ屋敷』 国境と世代をこえて』という古橋忠晃緒で、それは病理なのかと海外の研究も交えて解説してくれる。うちの孫娘もそうだが、汚ギャルで不登校もどうなのかと、そこのところが知りたかった。

 

 ごみ屋敷は、ひきこもりが高齢化した結果と結論づけているが、そこもまだ解明されていないところもある。溜め込み障害という病気なのか。ゴミ屋敷問題はますます増えてきて、この平塚にもいっぱいある。いまのところ、道路までははみ出してはいないが、外から見たら、どこから家に入れるのか、わたしはそれが謎でうろうろと見ていたりする。玄関はごみで埋もれて、出入りができない。裏口があるのか。電気がついているので、中には人がいるのだ。それとて、何か食べないといけないので、まさかごみを食べて生きているのではあるまい。ちゃんと買い物はしないと、腹も減る。いまは、ネットスーパーもあるから、裏口で受け取れば、いつもの配達員なら、そこで受け渡しができる。外に出なくても喰うことはできるが、きっと風呂場もごみでいっぱいで、風呂には入っていないし、ゴキブリと鼠が大量発生して、それらと同居していれば、一人暮らしもさみしくはない。みんな家族で、名前をつけて呼んだりしていたりして。

 病気はどうなのか。風邪をひいても病院にも行けないで、重い病気なら、処置すれば治るものも治らず、ごみの中で孤独死。何年かして白骨で遺体が発見される。

 そういう家も近所は街の景観が悪いと、門と垣根に花をいっぱい飾っているところがあって、それはそれで住人の思いだが、本人は迷惑に思っているかもしれない。

 やたらとガラクタを溜め込んで、別の家も出入りはどうなのかといつも南図書館に行くときに覗いてゆく。そこのガラクタはわたしの欲しいものがたくさん積まれている。骨董品もあるし、ガラクタでもインテリアにしたらいいものばかり。外国の道路標識とか、どこから持ってきたのか鉄道の部品、道路標識、使われていない、古いクラシックカーもごみか廃材で埋まっている。一階からは出入りできなくても二階からなら出られるが、外との交渉もなしにして、ひきこもり、出る必要がなければ、いまはネットでなんでも買える世の中だ。

 

 その本の中に、ディオゲネス症候群という新しい病名が出ていた。わたしの好きなギリシァの哲人で、樽の中で生活していて、有名な話がアレクサンダー大王が、その存在を気になり訪ねて、なんでも所望したいものを取らせると試したところ、ディオゲネスは、そこをどいてくれないか、日が当たらないと言ったとか。ディオゲネスは自給自足の生活で、最低の生活に甘んじている。ストア派とも違うストイックな生活だが、ソクラテスの孫弟子にあたる、奇人なのだ。犬儒派の思想の体現で、犬のような生活と書かれている。言葉はワンワンだろうか。死因は所説あり、犬に噛まれたともある。犬的生活で犬が怒ったか。

 コスモポリタンを自認して、その最初の人になる。国境も国籍もいらない自由人、自然人なのだが、そこからなんでも拾ってきて使う、溜め込むことをデセィオゲネス症候群といい、それはわたしにも該当することなので、興味深く読んだ。

 

 わたしの場合は、図書館の除籍本をせっせともらってくるのだ。昨日も平塚の図書館の入口にある書棚に、どうぞお持ちくださいと、リサイクル本がずらりと並べてあるが、シールが貼られ、線引きでバーコードが消されている。いい本ばかりで、岩波文庫が多く、70冊もいただいた。どういう本かというと、きっとあまり借りない固い本ばかりで、哲学思想が多い。『日本精神史研究』和辻哲郎、『旧事諮問禄上下巻』『黙移 相馬黒光自伝』『中井正一評論集』『田中正造文集』『アナバシス』クセノポン……などなど、古本屋時代には高く売れた本が除籍でいらないと。たまたまバックパックをワークマンプラスで買ってきたのが、本でいっぱいになり、エコバッグもいっぱい、背中と両手がいっぱいになる。自転車は重みでパンクしたないか。それより、部屋はすでに4千冊の本でいっぱいで、どこに積むのか。六畳間の自分の書斎はもはや、本を読む空間ではなくなっていた。本が半分を占領していて、ボードやサップ、キャンプ用品と防災バッグ、パソコンデスクの上もいっぱいで、寝ることはできないので、いまは、息子と枕を並べて寝ている。

 引っ越しのたびに、整理はしてきたが、図書館の除籍本というのは、わたしの欲しい本ばかりで、ついつい手が出る。青森ではなかったが、東京に出てきてからは、目黒の中央図書館の近くで暮らしたが、そこがリサイクル本を一人五冊までと差し上げていた。それから、引っ越して、千代田区の四番町図書館も入口で差し上げていた。それはどんどんとワンルームマンションに運んだが、入院手術を二回したとき、病室で読んで、読んだら、病院の図書室に全部寄付した。誰かがまた読んでくれたら、無駄にはならない。そうして本の蔵書は持たないで千葉や平塚に引っ越してきたのが、この三年で、それだけの本が溜まった。妹はメールで捨てなさいと言うが、捨てるよりは、そのうち、近くの老人ホームなどに全部差し上げたい。いまは若い人たちは本は読まないが、老人は読む。

 

 その性癖、なんでも勿体ないと拾ってきたり、もらってきたりするのも、ごみ屋敷の精神状態と同じらしい。樽では暮らさないが、わたしもミニマリストで安藤昌益の思想に触れてから、自給自足の直耕生活をしようと模索していた。世界市民で渡り鳥生活もいいかなと、若いときからそう思い続けてきたのが、老後にはまだ本に縛られて、モノに支配されている。モノを捨てて、バックパックひとつでまた旅をしたい。なにもいらない。この身ひとつでどこにでも行ける。犬のようにはなりたくないが、卯年なので、うさぎのように飛び跳ねたい。