おじさんとおばさんの比較で決定的に違うのは、口数だ。それは若い人は別だろうが、おじいさんとおばあさんも同じで、どうして女はと、ひとくくりにはできないが、口から先に生まれてきたかのように、おしゃべりなのか。その反対に男は無口だ。

 太極拳のおばさんが、わたしに、車で送り迎えしている車内では、あれほどわたしが話すのに、体育館の練習のときはなんで話さないのと、前にそう言われた。それは、後四人いるおじいさんとおじさんの男性会員たちも同じで、誰もおしゃべりはしない。みんな黙って練習している。おばさんたちはピーチクパーチクとうるさいくらいだ。それがあたりまえなんじゃないのか。

 男はあまりおしゃべりは嫌われる。わたしの場合は高倉健に憧れて、あのように男は黙ってサッポロビールで恰好つけていたかった。なのだが、いつしか明石家さんまみたいになり、みんなを笑わせて、漫才ばかりしているので、わたしを知らない人は、この人はどういう性格をしているのと驚くのだ。再婚したかあちゃんも、付き合っていたときと、結婚してからは、がらりとわたしが別人になった、こういう面白い冗談ばかり言う人とは思わなかったと、わたしに対するイメージが変わったと言っていた。

 

 年と共に、だんだんと口数が少なくなってくる。一人暮らしになると、一人で部屋にいても、独り言は多くなる。誰に向かって話していると、誰か見たら、不気味だろうが、次第に老人はモノローグが多くなる。うちのおふくろなんか、話し相手がいないものだから、前に一緒に暮らしていたときは、親父が亡くなると、わたしと二人きりなり、わたしの部屋に来て、機関銃のように話す。こっちは創作もしているし、新聞を読んで、本も読んでいるのに、うるさくて仕方がない。勘弁してくれと言いたくなって、外に本を持って逃げるようになる。老害とは、傍若無人のふるまいなのだ。

 

 いま、外のファーストフード店にしてもレストランにしても、わたしの逃げ場所はおしゃべり公害でうるさい。とてもこういうブログを書いていたり、本を読む環境ではない。どうしてか、おばあちゃんになると、耳も遠くなり、声もそれにつれて大きくなる。あまりにもうるさいので、隣のサラリーマンの人に注意されていた。すると、小声で話すようになる。わたしは、耳にイヤホンで音楽を聴いて読書とコーヒーなので、気にはしないようにしているが、それにしても、ランチでもどこのファミレスでも男性客は少なく、ほとんどがおばさん軍団に占領されている。それは昔からそうだが、みなさん、専業主婦で仕事はしていないのだろう。平日の昼から、女子会か、おばさんたちが集まり、わいわいとおしゃべり食事をしている。旦那さんが500円亭主で働いているときに、奥様たちはフルコースかと、男尊女卑も逆転したのではないのか。男たちは無言で黙々と働き、女たちは遊興と買い物、グルメ、それで世の中が平和だからいいのか。

 おふくろもうちの姉もそうだが、おしゃべりだ。姉妹三人でも妹はもの静かというより、姉にたちに圧倒されて、口を挟む暇を与えられないのか、いつも静かだ。それにおふくろが入ると女女女で姦しい。女性はと書くところをここでは女と書く。女のおしゃべりはストレス解消で運動なのだ。それで心身ともに元気でいられる。わたしのブログも吐き出しで、それはそれでストレス解消なのだが、こもるよりは出すことが健康にいい。女が長生きなのはそのせいなのか。男たちは内に籠って早死にする。

 昼間は、どこの飲食店も女だらけで、それはすごいといつも眺めている。何時間もいて、間断なく話して、よく話すことがあるものだと感心する。口が疲れないものか。いま、これをマックで書いていて、隣のおばさんも、気合が入っていて、「なんなのよ、わたしは家庭の奴隷じゃないのよ。みんな勝手なことばかり言って」と、息巻いている。その会話に耳を傾けることも面白い。女の生態研究は外食で収録できる。ふむふむと聴いていて、旦那の悪口ばかりで、そうか、そうかと本も読むふりして、男たちとは実に可哀想な動物と思うのだ。