豪雪都市としては人口20万以上の街での積雪量世界一を誇っていた青森市もここのところは暖冬少雪。風向きが変わったように、雪は毎年、山陰や四国と九州に降ったりしていて、何かおかしい。いつも冬になると青森市の積雪量をネットで一時間おきに情報を公表しているのを見ている。去年も1mは越えなかった。今年も50cmぐらいから積もらない。2月は一番積雪があるが、昨日2月23日で降雪量ゼロで積雪量もゼロ。気温はマイナス2度とかだが、2月で雪がない? いままで一番少ないのではないのか。青森の人たちは助かっている。毎年、何回か屋根の雪下ろしもしないといけないのだが、それもしなくていい。これは異変だった。

 

 わたしの知るのは三八豪雪。あれは昭和38年、小学生の五年の冬でよく覚えている。2メートル積もった。玄関のドアが一夜で降った雪が1メートルで、内側から押しても開かない。それで、家人に言われて、二階の窓から外に出ると、スコップで玄関に堆く積もった雪を掘った。その前からずっと降り続いていた雪は、玄関から外の通りに出るまで、踏み固めた雪の階段で上り下りしていた。二階の高さと、外の通りと同じ高さになっていた。ということは3メートルはあっただろうか。除雪はもはやできないで、限界を越えていたので、青森市も市道であったが、そのまま積もるに任せるよりない。雪の捨て場もないので、家々の人たちは屋根の雪おろしも、道路に積むよりない。そうしてだんだんと道路が雪で高くなり、二階と同じになったのだ。うちの姉妹の部屋は道路に向いていて、隣が女子高であったから、女子高生たちが通学するとき、二階の部屋からこんにちは。目と目が合う。春の雪解けまでは、そういう生活が続く。二階から家に出入りしていた人もいたろう。車なんか車庫から出せないで、春までお休み。タクシーも入れないし、消防車や救急車はどうしたのだろう。郵便局ではキャタピラのついたラッセル車みたいな小型の車を使っていた。雪のない国では信じられない嘘のような話がいろいろとあった。

 

 青森市の積雪の記録は戦後の昭和21年で、2メートルは越えて、その記録はその後、破られてはいないと思う。そのころはまだ空襲の焼野原で、ようやく復興してきたときだから、交通麻痺ということもなかったろう。車なんか走っていないし、馬橇がまだ走っていた時代だ。

 現代ではそうは行かない。車社会で、そんなに降ったら、市民生活はどうにもならない。流通は止まるだろうし、昔のように、車は動かせないので、橇を引いて買い物に行くよりない。わたしが子供のときは、正月の餅を取りに餅屋に、祖父が手伝えというので、橇を押して行ったことがある。親戚みんなの餅も一緒に餅屋についてもらうために、餅米をどっさりと運んだ。つき賃だけ支払う。古川の市場は青森駅前にあったが、そこにもみんな橇で買い物にゆく。

 わたしが古本屋時代の初めは持っていなかったので、古本を近くに買取に行くときは、橇を女房と二人で引いて買いに行った。ダンボール箱五つくらいは載ったが、それをわたしが引っ張り、女房が後ろから押した。それが雪道で荷崩れして、本が雪の上に散乱したこともある。

 

 青森の冬は普通に積雪は150センチくらいは毎年あった。つい10年前にはそうであったが、ここのところは、1メートルは越えない。最大積雪でもそうだから、青森の人たちは楽で仕方がない。雪片づけが市民の最大の労働で、仕事以外に、毎日、降ったらやらなければならない。それは、家の玄関と屋根と、車の上、駐車場だけでなく、仕事場が別にあれば、その店先の雪片づけに、お客さんの駐車場スペースの除排雪もしなくてはならないから、重労働なのだ。

 それが嫌で、わたしは雪のない関東に逃げてきた。こっちに来ると雪はなく、冬は嘘のような晴天で、からりとしてなにより防寒着がいらない。ゴムの長靴がいらない。別世界なのだ。

 

 温暖化で、だんだんとそうなるのか。青森は縄文時代は温暖であったといい、それだから三内丸山遺跡にあるような巨大集落もあって、気候は当時はいまの仙台みたいな気候であったと推察されている。それだから、豪雪の地方に古代人はみんなが暮らしていたのではなかった。

 

 津軽には七つの雪があると太宰治も書いて、新沼謙治の歌「津軽恋女」にもある。そんな綺麗なものじゃない。のっつのっつと降り積もり、雪害なのだ。青森駅に降り立つと、猛吹雪で視界はゼロ。アーケードの新町商店街ですら、信号の色も見えないくらいのホワイトアウト。つららは下がり、屋根から危険な雪庇が垂れ下がる。どこに店があるのか見えなほどの雪の山で商売をして、雪に埋もれて暮らしていた。それがとんとなくなって、こんな少雪、この先もずっと続いてほしいと願うばかりだ。それでもそういう年は水不足になり、農作物も心配だ。雪の被害もあるが、雪はまたなくてはならないものなのだ。