八戸にイトーヨーカドーがオープンしたとき、うちの菓子屋はその二階にテナントで出店した。あれは昭和55年くらいであったか。その開店準備で、わたしは忙しく、八戸のうちの営業所に泊りがけで、メニューの組み立てもして、資材から厨房器具、備品の発注までみんなした。店内の設計図もインテリアの人と相談してどういう平面図にするかとそこから始めた。

 フランス風にサロン・ド・テにしようと、ケーキの販売も冷蔵ショーケース一本だけ店頭に置いたが、販売は婦人服売り場の二階、エスカレーター前だから、あまり期待はできないと、喫茶に力をいれた。それもいままでにないメニュー構成と、そのために東京に何度か行って、原宿、表参道も歩き、当時流行してきたクレープをあちこち覗いて、どんな酒と材料を使っているのかと、試食もして歩いた。それと紅茶も各種メニューアップするために、新宿高野のフルーツパーパラーに行って、高野の専務さんが書かれた紅茶の本も読み、アポをとって、図々しくも高野本社で専務さんと直々にお会いして、取引を持ちかけた。まだ28才という若さは怖いものはない。それで。高野さんから紅茶のニルギリやダージリン、アッサムなどを一斗缶単位で卸してもらい、それをビン詰めにして、金色のリボンとシールも作り、各店で販売もしたが、それをティリロイヤルというガラスの抽出器も導入して、美味しく出すのをサロン・ド・テで初めて行う。ケーキも女の子向けにダイエットのケーキと、砂糖不使用で、乳脂肪分も置き換えて、カロリー半分以下のチーズケーキにチョコレートタルトなど五種類を、女性ファッション雑誌のイラスト風のポスターも作り、その低カロリーケーキをフランス語で彼女のエルという名前にして発売した。

 

 イトーヨーカドーはスーパーの大きなのだが、田舎のデパートよりはモダンでいわゆるハイカラであった。それが出店してくると、地方都市の商店街は次々にシャッター通りになる。イオンもジャスコで出てきて、ダイエーから長崎屋とビッグストアが続々とやってくる。

 ヨーカドーのメニューはクレープと紅茶が主力だが、それは大きな電熱のホットプレートで作る時間はない。作るところを見ていたら、とても効率が悪い。それで、小型の自動でくるくると一周りすると、直径が18センチくらいのクレープ生地が焼ける機械を導入した。それなら場所もとらないし、練りだけ作って補充すれば、次々にクレープ生地が焼きあがって重なる。それを冷蔵保存もしていた。クレープシュゼットもメニューアップした。シュークリームの皮で白鳥の形を工場で焼いてもらい、桃の二つ割にホイップクリームを詰めて、ペーシュ・メルバという歌手のメルバのために料理長のエスコフィエが考案して彼女に供したという有名なデザートもメニューアップした。

 その作り方講習会を工場二階の食堂で、まだ高校卒業したばかりの女子社員たちスタッフを集めて何度も試作試食させた。訓練は一週間よりない。制服もおしゃれなものにした。

 サンプルケースにはディスプレイに、リボンをくるくると巻いたように流して、そこにわたしの持っていたチェロをどんと置いて、Bachの無伴奏チェロ組曲の楽譜を開いて、そこにメニューサンプルを並べるという凝りよう。小物まで細部に渡って拘った。

 そうして開店初日から三日間は、わたしが率先して厨房に入った。それは忙しいというものではなかった。50席以上あった客席は開店から閉店まで常に満席で、次々にオーダーが入る。飯も喰えない、休憩どころではないが、女の子たちは交代で休ませた。ふらふらとしてくる。売上はよかった。若いからやってゆけた。飲食店ではとてもいまは働けれない。体がついてゆかないだろう。

 

 そういうイトーヨーカドーの最盛期の華々しい思い出だけが残っている。ヨーカドーとの取引はそれだけではなく、札幌に営業所を出して、開拓していたとき、ヨーカドー全道での洋菓子のスポット販売のキャラバン隊を作った。専門に独身の若い男子社員を入れて、彼を帯広、釧路などのヨーカドーで一週間単位での催事販売をビジネスホテルに泊まってやらせた。商品は青森の工場が現地に直送させた。

 わたしも彼について、帯広、釧路まで行って、販売を手伝った。だいたいが食品売り場の催事コーナーで平台三本に菓子を並べ、ワッフルの実演販売を行った。ワッフルの皮だけ工場からチルドで送らせ、現地ではクリームを詰める作業をしてみせ、試食も出して一個50円くらいでカスタード、生クリーム、チョコ生、イチゴ入りなどを並べて売った。

 わたしも別動隊で、札幌市内や郊外のヨーカドーを一週間単位で回った。江別や琴似、市内各地のヨーカドーで札幌の工場から生地の練りも持ってゆき、皮を焼く焼成機も持ち込み、焼きたてに詰めて売った。実演販売はよく売れた。一人なので、トイレに行ったりするときは、隣の催事業者の寿司屋さんや漬物屋さんにお願いする。互いにそうして思いやる。寿司屋さんからは少し食べる寿司が美味しいと、その夫婦からよくもらってしゃがんで食べた。昼飯は、ヨーカドーから社員食堂の食事券を買った。200円くらいで、パスタにカレーにサラダと三品がついたりした。女子社員さんばかりで、コック帽に白衣で首にワインカラーのタイを巻いたわたしからバニラの匂いがするのだろう。女の子たちは、わたしを見て美味しそうと話していた。

 

 そういう前線で仕事をしているのが好きだった。ヨーカドーというと、いい思い出しかなかった。それが、今朝の新聞では、ヨーカドーの北海道、東北、北陸信州からの撤退と大きく記事が出ていた。北日本からヨーカドーは全面撤退するという。この10年で半分に店舗が減った。これから全国の不採算店舗の整理が始まると。ダイエーも一番だったのが潰れた。いまヨーカドーもかと思うが、グループではセブンイレブンだけが利益を出しているのだとか。株主たちは食品以外は閉めろと言っている。確かに衣料は人が入っていない。青森の店も撤退と、地元では騒いでいる。そこに神奈川県に本社があるロピアという平塚にもあるが、食品スーパーが入るようだ。わたしもロピアは安いからたまに利用している。デバートも体質が古く、あちこち閉店してきている。西武とそごうもまとめてたたき売りしても売れない。大型スーパーでも食品以外の百貨店スタイルの6階建や8階建の駅前店舗はどこも廃墟になっていて、そういうかつての商業施設のスタイルはもはや時代遅れなのか。

 大店法が撤廃されて久しいが、それで地方にもどんどんと大型店が進出してきて、地元のデパートはその煽りで倒産、中心商店街は没落してゆく。シャッター通りはどこの地方都市にもある。地元を蹴散らしてどんとショッピングセンターを作ったのに、それがまた撤退する。それこそ地方都市は街ごと廃墟になってゆく。地方消滅の幕開けだろうか。