いま、若い人たちの間で異変が起こっている。メールでの書き込みに句読点があると、相手が怒っているのかと思ったり、中には句読点が怖いという人もいたり、それで句読点を使わない文を書いてやりとりしているらしい。なんでも句読点をつけて相手に送るのはマルハラというらしい。それを聴いて、いまどきは本も読まないし、勉強嫌いもいるだろうが、とうとう日本語の句読点にまで嫌悪を感ずるようになったのかと驚く。それは面白いと、さっそく何日か前に毎日書いている終世紀という詩のページに書いた。

 

 句読点のホラー

 

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 というふざけだ詩ではない詩だが、これを見た若い人、特に句読点アレルギーの人は恐怖を感ずるのだろうか。

 

 句読点のない文を書くと、就職試験では落ちるし、大学受験でもどうか。ちゃんとした日本語のきまりがあるのも、長くそういう文も書いていないし、メールなどの簡略化した短文や、ブログにしても一行ずつ空けて、まるで詩のような句読点のない文ばかり書いているから、だんだんと、句読点できちんと書いている文が異質に思え、それが厳しく見えてくる。

 

 思えば、短詩形文学の短歌や俳句も句読点はつけない。詩についてはつける人とつけない人がいて、その決まりはない。どちらでもいいが、だいたいはつけない人が多いようだ。ネットでそれを検索したら、句読点のない文を書く人はディスグラフィア(書字障害)ということもあるようなので、要注意だ。

 明治までの文学では、連綿体で、樋口一葉の小説も現代語訳していないと、原文はとても区切りがなくて読みにくい。それまでは句読点のない文も普通で、昔の人はどうやって区切って読んでいたのだろうか。漢文も白文は漢字だけの羅列で、どうやって読み下したらいいのか慣れないと読めない。外国語はどうなのか。ピリオドやカンマは欧米ではあるから、ないと文にはならないのではないのか。

 

 文章の書き方も学校では国語の時間に教えているはずが、大人でも原稿をもらうと、書き方が判らない人が実に多い。前に古本屋と一緒に自費出版も仕事にして、引き受けていたときがあって、そのときは、原稿用紙で本にしてもらいたいと原稿を受け取るが、驚いたことに、タイトルと筆名が欄外に書かれていて、いきなり一行目から書き出している。それも最初の一字下げというのもなく、改行のときも一字下げというルールを守らない。わたしもブログをたまにアップして、そうなるのは、よく判らないが、パソコンからコピー貼り付けてメール添付して、外にいたりしたときにアップすると一字下げもなく、改行のときもなかったりする。後で直すのも面倒くさくしていないが、それも見た人からすればルール無視で、ちゃんとした文を書けない人だと思われているかもしれない。

 まして、句読点の使い方も気を遣う。どこで句点を置いたらいいか。文が長ったらしく読みにくく、すっきりとしないときは、文を二つに分けたほうがいいのかとか。現代の小説ではわざと読点を置かないで、句点だけで長々と書くのはひとつの技法で文体なのだが、そういう小説も書いたことはあるが、疲れる。野坂昭如もそんな小説を書いた。

 

 乱れる日本語とは以前から言われていることだが、これからは絵文字流行りが、おじさん構文となっていて、若い人たちから笑われているという。ネットから参考にしたら、それはおじさんたちは、若い子とのやりとりで、やたらと絵文字と顔文字を多用する。語尾にカタカナを使う。句読点を使う。長文。などが挙げられている。わたしはLINEでも絵文字はあまり使わない。カタカナも使わない。おじさんはおじさんで行こうと、若い人たちに合わせて下心を見せる必要もないことだ。

 

 うちの四歳児の孫が、文字を怖がるのだ。一人でトイレに入って、大声で怖いとじじを呼ぶ。何事かと行ってみたら、孫は水洗のタンクに貼っているメーカーの表示が怖いと言うのだ。それと、ベランダにも指さして怖がる。何が書いてあるの? と、見たら、火災のときはこの隔壁を破って避難してくださいと書かれていると教えた。まだ保育園では文字を習っていないので、それが意味も判らない、何かの恐ろしい呪文のように見えたか。それはいまどきの幼児もそうなのかと関心を持った。

 孫娘の本棚には、マンガがずらりとあるが、中に中島敦の『文字禍』の文庫本があって、へえ、こんなのも中二で読むんだと感心した。その話も思い出した。古代アッシリアの話なのだが、文字に宿る悪霊のことで、それが災いをもたらすというのが、まさに、いまの孫の畏れと句読点の恐怖にも似た話で、言霊というのもあるから、文字にも魂があってもいい。句読点も見る人によつては強い拒絶に見えるのか。

 句点はそのうち苦点に見えて、読点は闘点に見えてくるのか。句読点恐怖症という病気が若者たちに蔓延したら、それはそれで面白い。