本が読まれなくなったのは深刻だ。年々、そういう調査が新聞で発表されるたびに悪化している。活字離れはネットによって置き換えられて、スマホで読んでいるとは言うが、電子書籍でも活字本は数%より読まれていない現実を知らなくてはいけない。電子書籍にとって代わられたということではなく、やはりその趨勢は変わらないのだ。みんなマンガや雑誌を電子書籍で読んでいるにすぎない。ますます新刊書店は閉店して、出版社も倒産、いまや週刊誌も廃刊になり、新聞も読まれなくなる。みんなスマホ片手にゾンビみたいに電車でも歩きスマホでもどこでもその新興宗教に狂信的に憑りつかれているかのようだ。

 そんな中にあって、これではいけないと、義憤してブックカフェを開店させる勇気のある人が新聞紙上でよく紹介されている。いまは、そういう立ち向かう人たちを読書家は拍手で迎えるのではなく、大丈夫かと心配するのだ。独立書店もそうで、その小さなこだわりの本屋さんも、赤字覚悟で頑張っているのは頭が下がるが、果たして、生活はどうなのかとやはり、わたしも古本屋を長くしてきたので、心配はするのだ。

 古本屋もだいぶ減った。全国的にだいぶ前から減り続けてはいたが、先日、青森に帰ったときは古本屋時代の仲間の店に顔を出す。組合長はしぶい顔で、もう総会もできないし、二人しかいなくなり、何も共同事業はできなくなったと嘆いていた。かつては、17店が揃い、青森県の古書組合も、合同の古書目録を発行し、デパートでの合同売り出しもやり、新年会、夏の例会は温泉一泊と、組合活動は盛んだった。それがもう高齢化もし、亡くなり、店をやめたりと、わたしもそうだが、時代の流れでどうにもならないと、組合長も店を閉めたいと話していた。

 

 本の周辺はいまはそんなに厳しい。それでもあえてブックカフェを新たに起業するというのは危険だが、それでも戦うと、前線に立ち向かう兵士のようで、わたしには後光がさして見える。まさにクォ・ヴァディスだ。

 以前からあるブックカフェは古本屋兼業もあるが、TSUTAYAなどの新刊書店もやられて、自由な知の空間作りで、参考にはなった。うちもやってみたいと画策したが、仕事が忙しく、そこまで手が回らないと、店の一角にいただいた応接セットを置いて、バリスタもいただいたので、コーヒーは出していたが、それは無料のサービスだった。本好きが来るとくつろげる場所の提供で、そういう溜まり場作りをしたいとやっていたので、コーヒーでは稼ぐ頭はなかった。

 代官山のTSUTAYAにも行って見てきたし、双子玉川の店もそういう自由空間の書店にカフェが併設されていて、好きな場所には違いないが、何か本とコーヒーとは相性がいいとはいえ、新刊書をどうぞ自由に読んでコーヒーをというのが危ない気がする。コーヒーのシミをつけたらどうするのか。わたしなら、本とドリンクというのは汚したらどうすると心配でそういう商売はしたくはない。どうせ、新刊は委託なので、期限が来たら返本すればいいというのか。

 新宿にある大きなブックカェ、ブルックリンパーラーがオープンした十数年前に出版社の女性が案内してくれて、食事もできておしゃれな店ではあったが、どんなとこかと見てきた。確かに満席で、人気のある店だが、壁に飾られていた本は誰も読んでいないし、手にもとらないで、おしゃべりと音楽を聴いていたり、飲食に忙しい。肝心の本なんか興味もないといった様子で、彼女は、まるで本棚は壁紙ですねと、雰囲気演出だけのものかと、そのときはこれは新しい商売ではないなと思った。本場のニューヨークのブルックリンを歩いたときに、ブックカフェは何軒か覗いた。新刊書店と古本屋もあり、混んでいたが、そこでも本とは無縁の若者たちで騒がしかった。

 コーヒーショップだけでもいっぱいあるから、個性的な併用した形のカフェで本はどうなのかと思う。きっと理想と現実はかなり乖離している。読まない人が圧倒的に多い世の中で、ブックカフェだから、読んでくれるというのは幻想なのだ。読む人は読むから、コーヒーショップが併設されていなくてもカフェに移動して読む。それもいまは少数派。

 神田神保町の古書街に行くと、古書漁りをして、裏通りにあるさぼうるの古風な喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら戦利品の古本を読むというのは至福の時間なのだ。そのことをJJのおじさん、植草甚一のエッセイに書いてある。「コーヒーの肴は本」というのはよく判る。読書家のじいさんはいつも古書街に現れては、さぼうるでせコーヒーを飲む。その自由な生き方に憧れる人は多い。わたしの書斎にも植草本がシリーズで全部揃ってある。そこは昭和で、かつての本読みたちの生態なのだ。いまは絶滅危惧種で、読書家はレッドカードで保護しなければいけない人種になる。そんな時代もあったなと、いまは、懐かしく思い出すだけのブックカフェだ。