ブログを書いていると、書かないでとたまに誰かに言われる。身内でもそうで、そんな悪いことは書いていないで、褒めて書いても、書かれることが嫌なのだ。プライバシィの侵害となる。身内でもそうなので、実名は明かしてはいないのだが、それでも自分と判ると嫌なので、そういう人のことは書かないようにしている。

 前に青森のペンクラブの総会の席で、会員の方と話していたら、私小説を書かれているとか。それはわたしはいまは難しい時代になって、虚構でも誰かにとっては自分のことが書かれていると思われたら、クレームが来るから気をつけてと助言した。わたしも身内から叱られて、ブログは削除したし、読者からのコメントでも怒られて、身内が可哀想ではありませんかと、そうはっきりと言われた。友人の医者が亡くなり、そのことを書いたら、その奥様から電話が来て、即刻ブログは削除しなさいと命じられて個人情報を公表してなんですかと叱られた。即時、そのベージだけ削除したことがある。医者の仲間でその方のことを本にまで書いている人のことはいいのかと思った。市内でも有名な人なので、本にも書かれるが、それは個人情報ではないのか。そうすれば人のことはエッセイにも私小説にも書けなくなる。いまは、個人情報がうるさいのは、悪用するやつらがいるので、警戒しているのだ。

 そんなことがあってから、いまは個人名は出さないで、利害関係のあることも書かない、書いても一般論のように書くようにはしている。身内でもうちのおふくろはいいだろうと、婆ネタという面白おかしく書いて、身内を笑わせたりしていたが、それを生前の茨城のおふくろの妹が息子たちからプリントして見せられて、おふくろに電話をしてきたことがある。またあんたのことを書いているよと。それでそのときはおふくろから、わたしのことは書くなと叱られた。

 姪っこからも言われて、姉のことも書かないでと、本人から電話がきて、面白いネタには使えなくなった。

 わたしの友人はいつも自分のことばかり小説にしていたが、あるとき、浮気をしていたことを暴露して書いたら、それを読んだ奥さんから離婚届をつきつけられた。それはいつも本当のことばかり書くのでそうなる。わたしも二度目のかあちゃんに、自分の小説で恋愛ものを見せたら、再婚したばかりのことで、まだどこかに昔の愛人がいるのねと、急に不安になったから、これは小説だろう、いちいち本当のことと思われて、それでは恋愛小説も書けないだろうと、そう言って納得させたことがある。

 作家も実在のモデルから訴えられたりしている。完全に該当しないフィクションでないといけない。あるいは書きたいなら、それは動物にして、奥さんを豚にして書くとか、自分はカバでいいのじゃないのか。

 

 会社でも、SNSでもブログでも仕事のことは書くなと通達された。それは全社員に対してのコンプライアンスで、取引先の情報が公開されるとまずいことになる。

 わたしも身内のことを書き過ぎるから十分注意しないといけないが、息子たちも実際は読んでいない。本を読まない息子たちだから、親父のメッセージは届いていないのだ。一部のペンの仲間たちと昔の古本屋仲間だけしか読んでいないので、こういう長文のブログも本を読まない人たちには面倒くさいものなのだ。まして、人のことなんかどうでもいい。自分のことでみんな忙しい。

 わたしも書くという病気で、これはボケ防止とかそう前に書いたが、何十年にもわたる習慣で治らない。中毒か依存症か、書かないと糞詰まりになりそうだ。

 

 青森にも私小説作家はいっぱいいる。太宰治初め、葛西善蔵、三浦哲郎みんな自分のことを書いている。それも本当のことで、そこに作り話も挿入したりはしているが、太宰の『富嶽百景』では御坂峠で井伏鱒二が放屁されたという下りでは本人は屁はしなかったと否定している。それを質問した人もおかしい。屁論争までそのうち出てくる。三浦哲郎は身内の不幸を何度も折りたたむように書いている。それが自分の宿命であるかのように。週刊誌と同じで暴露本は面白い。読者にとって一番気になるところが、人と家族の秘密なのだ。私小説は日本独特のものではなく、ドイツでもイッヒロマンと呼ばれて、そういうジャンルがあるのだが、ゲーテも書いているし、文豪が書けば、それは名作となるのに、シロウトのわたしが書けば非難轟轟で、炎上する。

  友人たちもブログを読んでいて、飲み会の席で知らない人が相談あるとわたしに話しかけたら、言うな、言うな、言えば書かれるからと笑う。害のないところでさらりと書くし実名ではないのだが、みんな冗談半分で警戒してくる。ペンは時に武器になり武器よりも強し。

 いまから13年前のブログでは、ところどころが削除されて日付が飛んでいる。それは本人か身内か、削除要請があって消したものだ。それとこのブログでも2016年7月から2021年まで飛んでいるが、それは同居していた人が精神的病で、書くなと言うので、何度も喧嘩した。被害妄想のある人で、それが元で別れたが、その間のブログは削除した。それでも別のところで別名で密かに書いていた。隠れて書かないといけないほど、肩身が狭い地下ブログになってしまった。そうまでして書くことの意味も問う。わたしもその病気は死に至る病で死ぬまで治らないのかもしれない。