喫茶店をやっていると、いろんなお客さんが来る。時には歌手とか文化人が旅行で立ち寄る。昭和24年から青森市の中心地、柳町でケーキと喫茶の店をやっていたから、芸能人もかなり来ていた。誰か来ると、店長は色紙を用意していて、一筆書いてもらった。それが、会社が倒産したとき、どっさりと親父の遺品の中から出てきた。それらはすべて、古本屋をやっていたときで、とっておくとかそういうものではなく、これは売れるかなと、盛岡で二か月ごとにやっていた古書組合のセリに出してみんな売ってしまった。そのとき、サインが読めない色紙が二枚あった。古本屋の親父たちは、そういうサインも読める。博学な人ばかりだった。わたしも古文書研究会で半年勉強したが、古文書どころか現代の達筆も読めない。

 その色紙をフリという古書店のおやじたちが車座になってフリ人が中央に座り、最初の値をつけて、そこからセリが始まるが、誰かが、「おお、山手樹一郎か、いい字を書くな」と、そう言ったから、それが時代小説の作家の山手樹一郎のものと判った。それはどんどんと値が上がって、一万円以上で落札された。

 そのほかに、出品した色紙には、江間章子の色紙には「夏の思い出」と書かれていた。夏が来れば思い出す/はるかな尾瀬とおい空ーの作詞家だ。青森に来たら、きっと文学者は地元の新聞社の文化部が窓口になるか、県庁の文化課だろう。そのどちらも、うちの喫茶店の常連客になっているから、おいしいお菓子とコーヒーの店があると、近くだから、連れてくる。ほかに色紙があったのが俳人の中村汀女とか、青森県出身の俳優さんなんかはよくおいでいただいた。

 わたしがまだ赤ん坊で、喫茶部のカウンターでコーヒーを淹れていたおふくろの背中にいたとき、県庁の人が高村光太郎を連れてきた。十和田湖湖畔に銅像を建てる仕事で来青したのだ。少し小太りのモデルさんも連れてきたというが、それが後で聴いたら、文学仲間の笹田さんの親戚の人であったとか。それが後に湖畔に立つ乙女の像になる。

 わたしが小学1年生のときに、フランスからシャンソン歌手のイベット・ジローが青森に来た。公演のために来たのだが、なんと図々しく、うちの幼稚園の妹に花束を持たせ、青森駅のホームに迎えに行って、車でうちの喫茶店までお連れした。言葉も判らないで、半ば拉致してきたのではないのか。それで自慢のアップルパイとコーヒーを出して、イベット・ジローはトレビアンと言ったかどうか。そのときに書いてもらった色紙とスカーフにもサインしたものが出てきたので売った。

 

 青森の南に大型ショッピングセンターができたときは、一階にステージとサテライトスタジオが作られ、日曜のたびに歌手が歌いにきて、ラジオの生中継もしていた。そのホールの真ん前にうちのテナントが軽食喫茶とケーキの店を出していたので、ステージが終わると、マネージャーと歌手とラジオのディレクターとショッピングセンターのスタッフがみんなでお茶を飲みに入った。毎週、誰かが来ていた。そのときの色紙もいっぱいあった。津軽海峡冬景色を歌った石川さゆりのときはホールは二階までびっしりと買い物客が詰めた。そういう歌手の色紙はよくあるのか、そう高くは売れない。売れるのは作家や画家などで、イラストや絵も描いてくれるし、古本屋なので、そっちのほうが人気があるのだ。

 

 柳町の本店の喫茶部には、並びに内海旅館という大きな旅館があった。そこにはよく巡業で来たお相撲さんや、近くのクラブでどさ周りをしていた駆け出しの歌手などが泊まりに来ていた。そういう泊り客もコーヒーとケーキを食べに来ていた。軽食も出していたので、それも昼飯ならいい。

 

 うちの古本屋は思い出もなんでも売る。とっておくことはしない。わたしも個人的な思い出まで売った。古本屋とは思い出産業と言ったくらいで、懐かしいものが商材になる。すべて金に換えるのは、それで喰っているからだ。いまも保存するものはなく、みんな売っても惜しくはない。棺桶に入るのは花だけでいい。親父の遺品の腕時計も万年筆もアルバムの写真もすべて、親父の本を書いた出版記念の席でみんなにもらってもらった。背広から靴からネクタイまで、それらは押しつけで知り合いの家に置いてきた。残すものは何もない。それでいい。形見というのは身内だけでなくても欲しがる人はいる。そういう必要としている人が大事に使ってくれたらいい。引っ越しのガレージセールのように、葬式のときに遺品整理で、どうぞご自由にお持ちくださいとやるのは故人も喜ぶだろう。