息子三人とも顔が違う。三人とも四十は過ぎているが、わたしと似ているのは長男か。三男だけは青森の顔ではなく、かなり濃い顔なので、母親の長崎の血、九州男児の面構えというところか。一人だけ別の顔で、みんなからもそう言われているらしい。

 たまたま、テレビでさだまさしが出てきて、長崎のレポートをしているのを晩飯時に見た。それで、三男が突然、長崎の義母さんの実家の五島列島のことを聴いた。それと彼の母方の祖父が鹿児島のどこなのかとその郷里も聴いてきた。祖父と祖母の名前も知らなかったので教える。これは親が教えないと、三人共に自分の母方のルーツを知らないままに過ごしてしまうのだ。

 そこで、祖母の実家が上五島で、網元をしていたことを話した。長男がまだ赤ん坊のときに佐世保の義母の家に家族で帰省して、毎年の夏なのだが、そのときは、義母と嫁とわたしと長男の四人でフェリーで五島列島まで二泊で遊びに行った。昭和54年のことだ。五島まで船で行ったが、佐世保湾の九十九島は松島のように綺麗で、そこがサーカスのジンタにある美しき天然のメロディが生まれたところだと知った。トビウオが海面を飛んでいた。それが長崎ではアゴと言い、味噌汁はアゴだしで、魚が入った味噌汁はどうも苦手だった。

 上五島なので、確かフェリーが福江に着いて、そこからタクシーで走った。小串という小さな漁師村で、店もほとんどなく、辺鄙な田舎だった。家は大きく、青森から来たというので近所の子供たちが珍しそうに縁側に集まる。わたしは子供らを連れて、一軒よりない食品店でみんなにアイスキャンデーを買ってやった。親戚がみんな集まり、夜は歓迎の宴会で、わたしの嫌いな刺身がてんこ盛りで出た。墓参りもしたが、だんだん畑のような海が見晴らせる斜面に墓地があり、半農半漁の村なのだ。近くに車で案内されたが、平地に火山の噴火口があった。自然が豊かないいところだった。二日酔いで寝ていたら、朝方四時ころに当主がわたしを起こしにきた。浜にクジラが上がったから見にこられよと。だけど酔いつぶれていて、せっかくのクジラを見逃した。

 

 五島列島の思い出はそれだけだが、わたしら夫婦が離婚した後も、義母さんからは毎年、手作りのかんころ餅と大きなザボンが送られてきた。

 

 義父の話になる。生家は鹿児島の西の端で、それはどこなのかと、三男がグーグルマップで調べていた。本当の端で、野間池という町はあるが、そこには寺があり、義父の本家の菩提寺がある。義父は昭和56年の秋に56才で亡くなった。その年の夏に帰省したとき、義父と義母はとっくに離婚していたが、子供たちはみんな母親のほうについて、酒乱の父親のところには寄り付かなかった。それでも、一度はご挨拶もしないといけないと、わたしは嫁に手紙を書かせた。夏に会いたいと、息子二人の写真も同封してやった。ところが夏に佐世保に帰ると、義母は会わんでいいと頑なに拒むのだ。酒癖が悪く、あんた殴られるからと。それで会わないで帰ってきた。その9月だった。佐世保の警察から青森の嫁に電話が来て、義父が孤独死して引き取り手がないという連絡だった。別れた母親に警察から連絡があり、娘息子たちの電話を教えた。それは大変だと、急遽家族で長崎に飛んだ。土曜で金も用意できなかったが、おふくろが虎の子の百万円を持って行きと、渡した。葬式などで使うだろうからと。

 義父は佐世保の炭鉱で働いていたマルタンで、炭鉱が閉山になっても行くところがないので、三軒長屋の社宅に居座っていた。古い平屋の長屋がいっぱいあったが、みんな出ていって、義父だけがぽつんと暮らしていた。炭鉱で脳梗塞もして、足が不自由になる。それでも仕事はしないと喰っていけないので、近くの土木建築の会社で作業員として働いていた。わたしらが着いたら、提灯が出され、黒幕が張られ、葬式の最中であった。創価学会に入信したらしく、友人葬が執り行われていた。建設会社の社長も学会員で、すべて費用は出していたが、後で、それはこちらから返した。

 暑いので腐敗するし、顔も黒くなっていたというので、すでに荼毘に付されていた。義母は見んでよかとよ、焼き付くけんと言っていた。狭い社宅は二部屋よりなく、空き部屋の隣で葬式は行われ、炊き出しもされていた。そこに義母さんもいたが、他人のように振る舞うよりない。大阪にいた嫁の兄と福岡で働いていた弟も来ていた。三人兄弟だ。

 翌日は隣の住まいの片付けをした。わたしが率先してやったが、兄弟は怖がって入れない。血反吐で畳は汚れて、病身で亡くなったので、部屋は大変な有様、洗濯機には洗濯物、台所には食器、缶詰の空き缶から弁当の殻が散乱していた。飯を喰ったところで亡くなっていた。死後三日経って、近所の人が顔を見ないと不審に思って入って警察を呼んだ。

 わたしはゴミ袋と紐を買ってくるよう兄貴に頼んで、ゴミとそうではないものと仕分けてゴミ置き場に運んで、部屋を綺麗に片づけた。表札には家族の名前が連なり、子供らがいつ帰ってきてもいいように、衣服などもそのままにしていた。

 近所に挨拶周りもした。借金がないかと酒屋に顔を出したが、現金でもらっていたとのこと。飲み屋はどうかと入ったら、女将さんが泣いて、壁に貼っていた写真を見せてくれた。カラオケで義父が歌っているスナップだった。女将さんに、夏に孫二人と娘夫婦が来るから、二階に泊めてやってくれと頼まれていたと話した。うちは汚いし布団もないからと。それで待っていたというが、とうとう生前に会えなかった。警察からは死んだときに胸ポケットに入っていたという写真を返してもらった。それはわれわれ夫婦と二歳と一歳の初孫の手紙に同封した写真だった。肌身離さず大事に見ていたのだ。

 

 お骨を抱いて、近くのお寺で初七日の法要もした。墓は佐世保にはない。それで実家があった鹿児島まで行くことにした。兄弟の本籍のあるところが、鹿児島県笠沙町という野間半島の先で、鹿児島の西の外れだ。それを息子はグーグルマップで見ていた。海沿いのバス通りを辿る。バス停があるから、バス停の名前を追ったら、姥という部落があった。そこだよと教える。嫁の旧制は姥で、その姥部落には48世帯のうち大半が姥姓なのだとか。海までは下まで降りてゆかないといけない何もないところに部落がへばりついていた。

 わたしと嫁と兄貴と三才の長男と四人が列車で西鹿児島まで、骨箱と遺影を抱いて、亡くなってから十日して実家のある鹿児島へとやってきた。駅前でレンタカーを借りて、四時間くらい土砂降りの雨の中を走った。電話番号が判らないので、本籍のあるところに電報を打っていた。それで叔母さんが暗いバス通りに出て待ってくれていた。手を振ったので判った。でなければ林の中にぽつんぽつんと家があって、片側は海まで崖のようなところだ。近くまで走ってうろうろとしていたので、おばさんが気が付いた。

 家には親戚がみんな集まっていた。わたしらの顔を見るなり、義父の兄という人がばかやろうと泣いて怒鳴った。こんな姿で戻ってきやがってと。みんなが宥めた。子供たちは悪くないからと。それから大きな家に上がり、親戚が集まっての通夜みたいに会食が始まる。ここでも刺身がどっと出た。酒も注がれた。九州は青森よりも酒は強そうだ。鹿児島弁と津軽弁の会話では通じない。半分何を話しているのか判らない。

 翌日は部落の近くの墓地に埋葬に行く。その前に、埋葬許可書?をもらいに役場に兄貴と行った。わたしは役場の人に姥部落の歴史について聴いた。珍しい地名で苗字だと。なんでも戦国時代に四国の高知から三人の落ち武者が舟でこの海岸に流れ着いたのだとか。ご先祖は武士であったのか。全国の姥さんはこの部落から出ていると教えられた。

 納骨は姥家の先祖代々の墓に入った。当主は仏さんはばあさん子で可愛がられたから、一緒に入って喜んでいるだろうと言った。それから野間池の寺で法要をした。まだ真夏のように暑い南国で、礼服は汗でびっしょりになる。

 

 長い葬送の旅も終わり、わたしたちは兄貴と別れて鹿児島空港から飛行機で帰った。息子にはそのことを話した。いつか、おまえたちのルーツの鹿児島の姥部落に行って、祖父の墓参りもしたらいいと。本家を訪ねて行ったら歓迎されるよ。うちの菓子屋が倒産するときまで毎年、盆正月はお菓子を送っていた。向こうからも歳暮とお中元が来ていた。みんなどうしているのか。代替わりをしても従兄はとこはいるだろう。

 

 長い話になった。五島列島と鹿児島の血を引いた息子は初めて聴く話に目を輝かせていた。人はどこで知り合い結婚して、子供が生まれ、その子が誰に似ているとか、そういう話になると、遠い九州の風景が目に浮かぶ。血縁という不思議な縁を思うのだ。