昨年の親友の葬式はドライブスルーのように、お焼香して終わりの1分で終わる。座る椅子もなく、遺族の娘さんだけが立って迎えた。香典返しはあるが、当然通夜振る舞いもなく、法事というものもない。実に簡単でいい。コロナから、葬式の形ががらりと変わる。参集しない形になり、東京もそうらしいが、玄関からお焼香だけでみんな帰ってくる。大阪にいたときも、そういう葬式を見た。寺やセレモニーホールではなく、自宅の玄関に祭壇をしつらえ、戸を全開にして、遺族は玄関口に立ってお迎えする。次々に近所の人たちがお悔みに来るが、すぐに帰る。それと似ていた。

 叔父のときも年末だったが、通夜と葬式と二日にわたる日程ではなく、家族葬のように外部の人には知らせない。新聞にも出さない。ネットでわたしは地元の新聞のお悔み欄を毎日見ているが、それにも出さないと死んだか判らない。半日で通夜と葬式と繰り越し法要が終わり、通夜振る舞いの場所もなく、法事もなく、会葬者にはお弁当を持ち帰ってもらう。それはいい。これからもそうしたいと思う。遺族の負担もなく、会葬者は物足りないだろうが、負担がかからない。法事が別にあれば、また何万円か包んでゆかないといけないし、時間もとられる。二日はそれで潰れる。仕事の忙しい人は休まないといけない。遠方から来ると二泊三日で来ないといけないので、ホテル代もかかる。

 

 と、時代は簡素化で、ゼロ葬という言葉も出てくる。葬式はやらない。そういうことを遺して亡くなった芸術家が身近にいた。青森の彫刻家の鈴木正治さんだ。家に行くと玄関に「死んでも葬式いらない」と張り紙がしてあったのに笑う。ユーモラスな作品も多く創ったが、生き方考え方もそうで、わたしは生前はご自宅がうちの古本屋が青森市の上古川にあったときは、向かいだったので、正治さんが古本屋に顔を出した。われわれの同人詩集の装丁と挿画も担当してくれた。

 葬式はいらないというのは、いままでが無駄なほど、結婚式もそうだが、わずか何時間もないのに何百万と使う。どちらも三百万かかると言われて、それを外国人に話すと笑うそうだ。イギリスでは何十万も使わないで、どちらもする。結婚式も手作りで、野外でもするし、そんな金はかけないのだ。とかく日本人は見栄も張り、大勢の人を呼びたがる。村ほどそうで、青森の一番のホテルでの結婚式では、大型バスをチャーターしてどっとホテルにやってくる。向こうが見えないくらいの席が並び400名というのもざらだ。葬式もそれに倣う。

 それがここにきて、その異常な誇示を廃止して、簡素化運動というのもあったが、それよりさらに進んでゼロ葬という家族だけで終わる。直葬となると、葬式はないし、火葬だけで、枕経で坊さんも終わり。金のない貧乏な人にはちょうどいい。市民葬というのもそういう人のために市役所に行けば資料をくれる。火葬と少しの祭壇で前は青森では5万円少しで、それぐらいなら、みんな遺族が金を出し合えばできるだろう。

 うちのおふくろは、妹の家の近くの冠婚葬祭互助会に入っていて、もう積み立てもなく一括で払っているので、おふくろが亡くなっても、葬式代は払わなくてもいい。高齢だから、もうそういう準備はしている。いつどうなるか判らないから、そのときに慌てないようにしている。

 

 無葬社会という言葉も出てきて、孤独死も増えてくる。シングルで子供もいないと、高齢になってアパートで死ぬと引き取り手がない。そういう無縁仏さんも増えた。遺族がいても、火葬はするが、墓がなく、困り果てた遺族が、骨箱をスーパーのトイレに置いて逃げたり、わざと電車に置き忘れるとか。そういう遺失物センターにも骨箱があり、コインロッカーや期限の過ぎたトランクルームにも骨箱があって、業者は始末に困っているとか。葬式以前の問題で、もう離縁した夫のものとか、死んでせいせいした酒乱の父親のものとか、ゴミに捨てたい遺骨がいっぱいあるのだとか。それだけでなく、葬式もしない故人の遺志もあり、簡単でいいと自然葬、散骨もある。それもまた金はかかる。どこでも捨てていいわけがない。

 この前はうちの息子とその話になり、わたしが死んだら、葬式はいらないが、墓にも入りたくはないが、少しは入れて、大半は海に撒いてくれと散骨を話した。それも金はかかるから、かからない方法として、火葬もせずに、体をみじん切りにして、海に撒き餌にして、釣りをしたらいいと教える。鳥葬もあるが、魚葬というのもいいではないか。釣った魚を供養に食べてくれ。と、冗談で話したが、息子は金がないからどうするのか。食葬で、孫たちも入れてBQQパーティでもしたらと言うが、親父の肉は不味そうと嫌な顔をする。

 

 いまは墓じまいもあるし、納骨堂は倒産して遺骨は持ってゆけとそのうち言われるし、樹木葬とて会社経営だから、倒産したら更地にして売られる。永代供養というのは嘘だ。百年続く事業なんてないのだ。みんな倒産破産している。お寺も廃寺になり、これからはインドのように川に流すか海に流す。親鸞さんも遺言でそう言った。魚の餌なのだ。うちの息子たちも孫娘ばかりで、ようやく男の子が一人できたが、その子とて将来はシングルで通すと終わりだ。廃絶という家はこれからはいっぱい出てくる。荒れた無縁物の墓が粗末にされているのを鎌倉でもいくらでも見た。墓石も石段に使われていた。ハイキングの人たちはその石を踏んで山登り。

 

 葬式とはなんだろうかと、最近は考えさせられる。