叔父の火葬のときに従姉妹の子供らから、わが家の歴史を訊かれた。案外と従姉妹たちも知らない。それは親が話して聞かせないので判らないのだ。親が死んで初めて、親の兄弟は何人いて、父親は何番目なのかという疑問が出てきた。それをわたしのところに聴いてくる。親の兄弟は12人だとかいや7人だとかみんな間違っている。明治44年生まれの長男と長女は双子であったが、それを筆頭にすぐ下の東京は亀有の伯母、それからうちの親父は次男で、その下に沖縄で戦死した三男の叔父がいた。その下に、子供のときに死んだ叔父が二人いる。まだ4歳かそこらで亡くなった男の子と12歳くらいで亡くなった男の子は優秀で頭脳明晰、大人を将棋で負かしたという。その子に将来の一族の仕事を任せたいと祖父母は思っていたようだが、夭折した。その子の下が親父と同じく3.11の年に85歳で亡くなった六男の叔父で、今回の葬式は七男の最後の叔父であった。七男二女の九人兄弟だと教える。昔は子だくさんだった。それでも全員が大きくならず、病死したり、生まれてすぐに死んだりと、子供の成育はいまのような医療と食料が充実していなかったので、そのために七五三というお祝いがある。無事成人したのは7人で、そのうち戦後まで生きたのが6人だ。

 長男だけがわが家の代々襲名してきた忠兵衛という名から忠の字をもらう。みんな近江商人の末裔なので、商売人ばかりだった。サラリーマンはいなかった。長男は青森中学に入る。太宰治と学年は違うが廊下ですれ違っていたろう。双子の長女は青森の呉服屋、神戸屋さんの兄弟に嫁ぎ、明石で暮らした。その下の伯母は洋裁を手掛け、戦前には東京の駒込で店を出して、お針子さんを何人も使っていて、戦後は亀有駅前にプレタポルテの店を出して、洋服のデザイナーとして賞もいただいている。その次がうちの親父だ。戦前に銀座コロンバンに丁稚奉公して、戦後は復員すると青森で洋菓子屋を出す。

 その弟は親父の商売を手伝い、後に営業部長として活躍することになる。今回亡くなった一番下の叔父は、それでも95歳といううちの親父より二年は生きて、わが家の男の長寿の記録を更新した。その叔父も戦後は国鉄職員して勤めたが、肺病を患い、家で寝ていたが、肺病には鶏糞がいいと聞いて、大野という線路向こうで鶏小屋を一時は3棟建てて養鶏をやる。その卵は洋菓子工場で使う。肺病が治り、その後は洋菓子屋の製造部長として親父の会社で働く。

 

 従弟の子供がわたしに火葬場でルーツを聴いてきたので、江戸時代の最初までは近江の国の高島にいたということを話した。それから盛岡へと流れてきて、そこで商売をする。盛岡の願教寺は近江商人たちが寄進した浄土真宗のお寺で、われわれも何度かお参りに行ったが、そこにご先祖の墓はあるはずだが、叔父と一緒に裏の墓地を見て回るが、すごい数でとても調べられなかった。寺の歴史から、江戸の中期に南部藩から分藩した2万石の八戸藩に願教寺から八戸に坊さんが行っている。それに着いて行ったか、八戸で今度は近江屋は商売をする。八戸の歴史でも大塚屋、七崎屋と並んで三店(さんたな)と言われた豪商であったらしい。藩に借金させて七崎屋は潰された。取り入ることでご先祖の誰かは家老もしたとか。伝地伝畑とお祭りのえんぶりも奉納したとか、明治に入ると明治天皇の女官をした人もいたとか、どうしてもそういう自慢話になってくる。それが明治中頃までいまの三日町のさくら野百貨店のところで造り酒屋をしていたのが倒産して、わたしの曾祖父の父だから、四代目近江屋忠兵衛という人が、荒縄で首くくって死んでくると北海道に渡ったというが、その後どうしたものか。明治2年生まれの五代目の忠兵衛さんがわたしの曾祖父で、昭和31年に亡くなったが、2月の豪雪のとき、四歳だったわたしも馬橇に載せた棺の傍に乗せられて火葬場に行った記憶がある。

 その忠兵衛さんは八戸から明治中頃に弘前の親方町の先のいまはどうなのか、パチンコ屋があったところで南部煎餅の店を出して繁盛していた。人力車に芸者を乗せて飲み歩いていたらしい。わが一族の男は酒と女には気を付けなければならない。それで身を亡ぼす。明治22年生まれの祖父は、七戸町の盛喜の酒屋から婿養子として、姉妹二人しかいなかったわが家に入ってきて、9人の子供を作った。生前によく祖父は話していた。森田という旧姓だったが、うちは木村で、森から来て木を増やして森にしたと。

 石川啄木と年が近い祖父は昭和53年に亡くなるまで、わたしも傍にいた。明治の写真に写っているが、啄木に顔がよく似ている美男子だった。わたしを一番可愛がってくれた祖父だった。

 戦後、初めての死者が出たのは、沖縄で戦死した叔父であったが、遺骨なんか返るわけがない。どこでどう死んだのか玉砕であったろう。昭和28年に、戦死報告の知らせが国から来て、三内霊園に墓を建てた。それから昭和51年に、戦前は八戸の本覚寺が菩提寺であったのが、そこにあった近江屋の墓石を探してきて、無縁仏になっていた墓をいまの青森の三内霊園に移したのは、実はわたしが結婚した人と大阪で駆け落ちして一時行方不明になっていたが、それを占いの先生に訊いたら、ご先祖の墓が粗末になっているからだと、そう言われて、叔父とおふくろが八戸の本覚寺に探しに行って見つけて三内に運んできたのだ。それを毎日拝むと息子は帰ってくると言われて、叔父とおふくろはわたしのために毎日墓参りをしていたとか。後でそれを聴いて、申し訳なく思った。

 今回の叔父の遺骨は、三内のわたしの名義の墓に一緒に入りたいと生前に話していたのは、若くして亡くなった叔父の次男が入っているからと、父親に可愛がられていた叔父なので、共に入りたいという希望もあったのか、そのことで、叔父の娘のミー坊からも訊かれていた。還暦になって孫もいるのに小さいときからの呼び名でミー坊もないが、みんなそういまも呼んでいる従妹だ。

 長いわが家の歴史を話していたら、ちょうど一時間半で火葬が終わりましたとアナウンスが入り、叔父の骨揚げにみんな向かった。骨になるまでの時間でわが家の歴史の話も終わる。