12月に亡くなる身内が多い。うちの祖父は12月29日が祥月命日で、その年はなんだか正月のおせちの支度をする気がしないと、母の叔母が話していた矢先に、祖父は長男の家で亡くなったと知らせが届き、わたしが車で遺体をわが家まで運んだ。長男の家では葬儀もできないし、わが家のほうが広かった。それで叔父たちも夜中に集まって、年末の忙しいさなかに祖父はその前に住んでいた自分の部屋と仏壇の前に帰ってきた。火葬場は年末年始で休みなので、松の内が明けてから火葬、通夜と葬式は1月7日8日となる。それまで祖父に可愛がられたわたしは、まだ結婚したばかりで、若かったが、ずっと徹夜で祖父の傍にいて線香を絶やさないように朝まで起きていた。こちら青森では、火葬してから通夜葬式をする。東京は生でやるようで、北海道も生だった。焼くか、生かと、酒の肴の話のようだ。

 親父は次男だが亡くなった3.11の年の冬だった。六男の叔父もその年の12月12日に亡くなる。それも突然で、いつも周囲を慌てふためかせる。85歳とはいえ、病気でなければまだまだ元気な人であった。親父の弟で、なんとなく、冬にばかり葬式がある。曾祖父のときはわたしが四歳のときで、馬橇で雪の中、鈴を鳴らして火葬場まで走ったのに棺桶と一緒に乗っていったのを覚えている。

 そして、今回は9人兄弟の最後の生き残りの七男の叔父で、満95歳で12月9日に亡くなった。父親に可愛がられた息子二人が父と同じ月に、それも兄弟仲良く日にちも近く亡くなる。下の叔父も老衰とはいえ突然のことで、施設に移ったと、LINEで従妹から連絡があり、居場所が解ったので、見舞いに行こうとしたうちの妹夫婦もそれに間に合わなかった。だいぶ弱っていたようだ。それからLINEで葬儀日程が来るまで、わたしは平塚で待機していた。それをこのブログで書いたので、読んだ千葉の従兄から連絡があり、日程を教えてときた。わたしに香典を託すと。東京の従姉からも香典を預かり、日程が来たので、金曜日の新幹線の切符を取りに行って、ついでにみんなへの土産も買い、祭壇に捧げる菓子折も買う。いつもながら、湘南名物はあまりないので悩む。それで横浜の馬車道のチョコレート菓子にしたりする。

 礼服など持ってゆくものを用意する。当日の孫の保育園の送り迎えは二人の親に任せた。息子が早朝に車で平塚駅まで送ってくれた。東京駅に着くまで、東海道線は異音のためと止まる。大丈夫か。それでも早めに東京駅に着いて、コーヒーを飲む時間もあった。改札口に従兄が来ていた。香典を預かる。ついで、彼からお金をもらい、これで青森の市場からタラコと干し菊、甘塩のシャケを送ってと頼まれる。いまは不漁で東京も高いが、青森はどうなのか。

 新幹線は満席に近い。全席指定で一昨日とっていてよかった。仙台で半分降りた。盛岡からは雪が積もる。雪靴で来てよかった。新青森駅から在来線に乗り換えて青森駅へ。青森駅は雪の中という歌も出るくらい吹雪いていた。3時間で来た。それから昼飯と駅前通りのおさないの食堂に行ったら、人気店で外まで並んでいたので、パス。いつも行く居酒屋でランチのブリの照り焼き丼をいただく。

 そこから古川の跨線橋脇にある葬祭場までは歩いてすぐだ。うちの前の古本屋があった近くだ。行ったら喪主の従弟と妹のミー坊と叔母がいた。叔母はわたしを忘れていた。三年前に家に行ったとき以来だ。それから何度も家に行ったが、誰も出てこないで電話も出ないし、留守なので、叔父の居場所が解らなかった。それで、いとこ会というLINEのグループをこのたび作り、一族の連絡網とすることにした。

 葬祭場には続々と若い人たちが来る。誰が誰か判らない。従弟は五人の子供がいるが、その家族となるとごちゃごちゃで、小さいときは見ていたが、いきなり夫婦で子連れで来ると、あなた誰? みんなが集まったところで、平塚から持ってきた名物の都まんじゅうをふるまう。

 従弟妹たちが続々とやってきて、叔父の棺に花を入れる。叔父は鼻高く七戸町の祖父の家系の顔立ちで、死に顔を見たらわたしの祖父とそっくりだった。父親に可愛がられた叔父だから、余計似てくる。そうして出棺となる。各々のマイカーに便乗し、火葬場へと向かう。わたしも従妹の車に乗せてもらう。雪はいよいよ吹雪になる。

 

 待機ご遺体の問題がいまは全国的に起こってきていた。多死社会で年々死ぬ人が増えると、火葬の予約でいっぱいになる。東京なんか二週間待ちという話もある。ご遺体も木乃伊になる。ドライアイスも取り換えて高くつくが、そこに目をつけたご遺体安置の冷凍ホテルが新しいビジネスでできているのだとか。冷凍して順番待ちをする時代が来ている。

 叔父のときも、混んでいて、亡くなってから一週間目に火葬が決まる。それも夕方と、最後の時間よりとれなくて、午前から昼過ぎまでは満杯だったという。お別れに棺の周りに集まる。90分で焼きあがると説明。棺は窯に入り赤いランプが点灯した。

 遺族の控室でビールを久しぶりに飲む。従弟の三男は東京にいるが、ミュージシャンをしているのだとか。作詞作曲しているような恰好だ。彼がわたしのところに来て、わが一族のルーツを聴きにきた。滋賀県の高島から出てきて、近江商人で盛岡から八戸、弘前、青森と行商、酒屋、煎餅屋とずっと商売をしては潰してきた歴史を教える。家紋も聞いてきて、宗派と親戚なども。むつの出身で映画監督だった川島雄三も遠縁ではないのかと教えた。家紋が一緒で高島から出たご先祖が近江屋忠兵衛と襲名も同じだ。彼の自伝を読んだらそのことが書かれていると。

 それと叔父の兄弟が何人いるのかみんな知らない。9人兄弟だと教える。男7人の女2人、子供のときに亡くなったのが2人いる。沖縄で戦死したのが1人。戦後まで生きたのが6人だ。その名前も従妹たちは知らない。こういうときでないと、そういう話が出ないからいい機会だった。

 骨上げになる。とうとう叔父も骨になる。納骨は春だろうか。霊園はこれから深い積雪で、春の彼岸の墓参もスコップで掘らないと墓が見えないくらいだ。うちの親父も真冬の2月に亡くなったので、納骨は5月の桜が満開のときにして、それまで仏壇のわたしが寝ている枕元にいた。

天気はいよいよ悪くなる。北海道と東北は台風並みの暴風で雪という。年末寒波が来ていた。