おやじは若いときにカメラマニアであった。いろんなカメラを持っていた。月給が三千円のときに三十万するフルセットのニコンのSとその後に出た3Sを買っていた。昭和二十九年過ぎに、商売は軌道に乗り、自分の趣味を写真に見つけた。若いときは貧しく、とてもカメラどころか飯も食えなかったことの反動だ。当時の雑誌がうちの古本屋に入ってくる。その裏表紙に出たばかりの白黒テレビの広告が載っているが、それでも6万円とかそういう値段だ。その機種は、戦後、ニコンが出した最高級のカメラだったようで、いまでも知っている人は名機だというだろう。ライカやハッセルブラッドといった外国の名機も数あるが、日本も負けてはいなかった。
 そのほかには、マミヤの二眼レフやポケットカメラのような小さなカメラもいくつか持っていた。さらに、趣味は高じて、三階の屋根裏部屋に自分の暗室も造り、引き伸ばし機に現像する道具すべてを揃えていた。わたしの子供時分はそこが隠れ家となった。
 おやじの経営する喫茶店にはお客でよく光画会という、この街のアマチュアの写真の会のメンバーがコーヒーを飲みに来ていたばかりか、喫茶店の壁を使って、定例の展示会もよくやっていた。そうした常連客に誘われて、芸術からは程遠い感覚のおやじも写真を趣味とする。
 戦後、ミスユニバースが始まり、青森から準ミスが出たことで、世間は大騒ぎしていた。うちの店の前でよくモデル撮影会を行って、その準ミスも呼んだ。我が家のアルバムには、会のメンバーとおやじが一緒に記念撮影した写真がある。八頭身美人という言葉がはやったが、いまでも通じる美人ばかりだ。
 そのモデル撮影会が珍しいと、店の前はすごい人だかりで、チビのわたしは自分の家に入れないほどであったことを記憶している。何でも珍しいものに人だかりができる時代で、物売りが街頭で口上を述べてマジックインキなどを売っていても、近所から通行人など、黒山の人だかりができる。
 そうした割りには、おやじの写真の腕はたいしたことはなかった。他の会員の方の作品は、芸術性が高く、風景や人物などの構図も計算されているようなトリミングがされていたが、うちのおやじのは、その辺で遊んでいる犬ころが可愛いからと撮ったものや、これが八甲田山だとでんと撮ったものなど、写真については何も知らなかった子供でもいいとは思わなかった。そうした写真集がずっと保存されていて、いまのわたしの目に触れてもやはり首を傾げるようなものだった。ただ、センスはないが基本は知っている。子供のわたしが撮った写真をおやじに見せたら、撮り方の指導までしてくれたのは覚えている。

 小学生のときに、わたしも始めてコンパクトカメラを小遣いで買った。それはいまから思うと、ちゃんとしたカメラでなくて玩具みたいなもので、ニコンのカメラのような形はしているが、大きさはその五分の一もないミニチュアだ。それでもファインダーがついている。フィルムも可愛い小さなものがあった。それで撮った写真はとても引き伸ばせない。なんとなく写っているというようなものだった。
 子供たちの間でそうしたカメラが流行った。小学五年の修学旅行に、もう少し大きな子供用のフジカのカメラを買ってもらって持っていった。その頃は玩具でなくて本物のカメラは持っているだけで自慢できた。うちも金持ちであったのだ。ところが、医者の息子が、旅行に持ってきたのは大人用のちゃんとしたペンタックスのコンパクトカメラであった。ようやくカメラも「わたしにも写せます」という全自動のシャッターを押すだけの簡単なものができて、女性たちにも買われはじめた。仲のよかった医者の息子はそれを修学旅行に持ってきていた。急にわたしは自分のカメラがお子様用なので恥ずかしくなる。

 おやじのカメラ遍歴は続いたが、だんだんと仕事が忙しくなり、他のつきあいも出てきて、カメラ熱は冷めてきたようだ。暗室も店を建て直すときに壊してしまい、自分で現像することはなくなった。
 8ミリカメラに凝ったときもあった。外国旅行をしたときも、みんな8ミリを持つ行ったようだ。ある社長さんは、その使い方が解らないで、逆向きに手に持って撮影していたので、帰ってから現像して映写機で見たら、自分の鼻ばかりが写っていたという、嘘のような話がいまもばあさんの思い出話で出る。
 おやじのカメラの趣味がすっかりと醒めたわけではないが、わたしに古いニコンのSをくれた。それは学生時代から若いときにずっとわたしの愛用のカメラとして、そればかり使っていた。
 だんだんと、四つ切に伸ばしたり、作品を展覧会に出すこともしなくなったおやじは、カメラは記録するだけのものとなる。とにかくやたらとパチパチと撮りまくる。次第にカメラもそうしたスナップ用のバカチョンになってゆき、シャッタースピードも露出もいらない押すだけのものとなる。どこに行ってもやたらと写真を撮るので、現像代もバカにならない。それより、最近になるまで人が来ると撮るし、外に出ると他人まで撮って、アルバムの数だけでも200冊あるのだ。アルバムに入っていない未整理の写真も箱に入っている。
 なんとか、そうしたフィルムの無駄使いをやめさせようと、八年前にデジカメを買ってやった。シャッター音もしないし、フィルムがいらないというのが、おやじには許せなかったようだ。そんなものはカメラではないと、触りもしない。プリンタも一緒に買ったので、家で撮った写真をプリントして見せたが、魔法のようなもので、どうも手にも取らないのだ。相変わらず、ニコンの簡単なコンパクトカメラばかり使っていた。

 そのカメラもようやく卒業した。この一年で、カメラを手にすることがなくなった。カメラがなんだか解らなくなったからだ。そんな認知のおやじの晩年を今度はわたしがデジカメで撮りまくる。アルバムは必要がなくなり、プリントすることもない。何百枚か撮り溜めたらCDに保存しておく。
 おやじの戦後半世紀以上にわたる写真とネガは、いま、古本屋の倉庫の一室に眠っている。