若いときに、親の仕事の跡継ぎに青森に帰ってきたら、親父の仲間から苛められた。宴会の席で、偉いさんたちにお酌をしに行くと、
「酒の注ぎ方も知らんのか」と、わざとらしく大袈裟に言われて赤恥をかいたことがある。お流れ頂戴いたしますと言うんだ。と、まずは、新入りの洗礼を受けたのだ。
そのお流れ、お零れというのは、この世界では下手で、二番煎じ、いいものに当たらないとも受け取られるがそうではもない。わたしは古本屋をやっていて、それで随分恩恵にあずかっている。
いつも本をネットで探してあげている市内の研究者のご老人からお歳暮のおすそ分けをいただいた。おすそ分けといっても、全然箱を開けてもいない。クール宅急便で、どうも高級な肉のようだ。
「誰それに上げると、皆さん、気を遣って、お返しを考えるだろうから、あなたならいいと思って」と、言うから、
「わたしは、全然気を遣いませんから、いくらでもいただきます」と、いつも図々しい。向こうも判っている。
さっそく帰って開けてみると、産地はいまは書くと偽装と思われるのか、ただ、黒毛和牛とだけ書いてある。それでもちゃんとした東京のデパートだから安心だろうと、久々に分厚いステーキと翌日はスキヤキを食べた。息子が一番喜んだ。いつもは、グラム百円の安い牛肉ばかりだから、たまにはいい。わたしはあまり肉は好きではないが、古本を通してたまにそんな美味しい話も出てくるのだ。
美味しいお流れは本にもある。市内の先輩の店のおやじさんが、ワゴン車でうちの店に寄った。文庫本はいらないかというのだ。彼の店はもう本でいっぱいで、入らない。それで、買うことにした。ダンボール箱で十二箱はあった。みんな綺麗なバーコードのついた文庫本ばかりだ。
きっと、お客がいらないというので処分を頼まれたのだ。それでもうちでは綺麗な文庫本はアマゾンに出品できる。絶版もので、値打ちのあるものなら、文庫本でも古書目録やスーパー源氏に出せるが、一般的な文庫本はすべてアマゾンだ。一番注文数の多いのもアマゾンだ。珍本は高いが、それを買う客は殆どいない。九十九パーセントの売れ筋は一般図書なのだ。それは侮ってはいけない。
わたしは喜んで同業者から買った。すると、彼は、
「実は、一万冊近い処分を頼まれているんだが、大方いい本はうちで抜いたが、まだまだ勿体ない本があるんだ。天に埃がいっぱいついているが、本棚十五本くらいに並んでいるんだ。どう? いるんだったら、見にきたら」
と、彼の店に紹介された家の本をわたしがいただくことにした。
「いい本があるけど、カバーは汚れているよ。うちでは、多すぎて処理能力がないんだ。あんたとこなら、まだ入るだろうしさ」
そう言うが、うちも二階はだんだんと埋まってきている。後七万冊ぐらいで上も下も塞がるだろう。
一万冊といっても文庫本から大型本までみんな入れてだから、ワゴン車で四回分はあるだろう。先輩が、万のつくいい本ばかりをチョイスした後だが、それでもうちの勝負どころは千円以下で売れる本だ。実際一番動いているところが五百円から八百円といったところ。切り捨てるにはあまりにも勿体ない本ばかりだ。
それで、お流れ頂戴とばかり、わたしは指定した時間に彼と一緒にその空家に行った。最近にない在庫を見た。大学の先生であったが、亡くなったとかで、家の中を整理して、息子夫婦が使うようだ。本の埃からして、もう十年以上は放置されたままなのだろう。本棚がずらりと並び、手前の本の後ろにも本、さらにその奥にも本だ。本が本棚で三重になってる。
時間がない。先輩は忙しいので、一時間後にまた来るという。一時間ですべての本にあたって、抜かなければならない。それは買い物ゲームと同じだった。如何にタイトルだけを見て、スパスパと抜いてゆくか。シリーズものや全集ものは、あちこちに散らばっているからパスすることにした。いちいち、合わせて揃っているか確認している時間はないのだ。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』も介山の『大菩薩峠』も、『ファーブルの昆虫記』もバラバラだから面倒だとはじいた。
とにかく、時間がない。まるで、空き巣に入ったようにわたしは焦っていた。誰もいない空家で、家の人が来るまで物色している気分というのは悪くない。わたしも泥棒になったような気分だ。それとも、運動会だろうか。如何に早く残り物の福を選ぶかだ。アイヌ語関係の本もある。どちらかというと歴史の先生であったものか、古代史が多い。それに関連して民俗学。一番高いところに岩波文庫がずらりと並ぶが手が届かない。椅子はない。脚立なんかあるわけがない。あの中にもいいものがあるのだろうが、時間がないから無視することにした。見ればみんな欲しくなるが、車に入る分だけより持ってこれない。ワゴン一杯でだいたい二千五百冊だ。全体の三分の一か。
一時間で先輩のいらない本をそれでも車に満載した。家の鍵を持って先輩が来ると、そのお零れの量に驚いていた。
「そんなにあった」
「へへへ、見ればみんな欲しくなって、ついつい」
わたしは食い意地を見られて照れて言った。
「あんたとこは入るからな。うちはもういっぱいで。羨ましいよな」
まるで、満腹な人が、ギブアップしているときに、傍でバクバクと食い続ける大食漢を見ているようなものだろう。
セリに行っても、そんな安い本は束で出される。多くの古書店は店が狭いから安い本は置きたくても置けない。扱いたくても物理的に無理なのだ。それで雑本はどうしても敬遠される。うちはそれが狙い目だ。ネットや目録に二百円からの本を出している。データで打つのも面倒な値段で売っている。
実は、全国いたるところで、こんなことが起こっているのだ。ブックオフは古い本は買わないで、すべて処分してしまっているが、古書店もまた、貴重なものでも安いものは持ってこないで、置いてくるのだ。高い本だけピックアップして持ってきて、残してきた本、文庫本や新書、雑誌などは、やはり家人の手ですべてゴミに出されている。本は安いというだけで、やはり多くは処分されているのが現状だ。
わたしは人のやらないことがいい商売になると思っているが、その雑本はそれはそれでいい商売にはなると思っている。児童書などはいい例で、扱わない古書店が多いが、それだけでも専門店としてやっているところが成功したりしている。
当分は他店の捨てるような本で商いをしてゆこうと思う。いい本はないけれど、よそにない安い本は沢山あります。いつだったか、
「雑本バンザーイ」と、注文のハガキに書いてきたお客がいた。うちの目録はよそより一桁少ない。見るとほっとするというのだ。効率は商売には大事だが、効率だけでもできないのが商売だ。