マスコミの記者が皇后に、もし、透明人間になれたら、まず初めに何をされるかと質問したのはつい先ごろのことだ。つまらない記者が愚問を言う場面は多々見てきたが、その記者はいい質問をした。皇后はなんと答えたか。
ー学生時代のように、また神田神保町の古本屋さんを覗いて古本を買ってみたい。
 と、そう仰言った。皇后は読書家だ。嬉しいことを言ってくれた。古書組合から逆に表彰ものだ。
 
 この世には透明人間であることから、事件を起こして、世の中に自分という存在を衝撃的にアピールする少年もいたが、まだ、この世に未練があり、栄誉を得たい自己顕示欲の旺盛な人は別にしても、わたしのように、ある日突然失踪したいと思う人間も多くいるのだ。
 確か完全失踪の仕方というふざけたマニュアル本も前に出た。借金苦、犯罪、失恋、家庭不和、会社のリストラで、ホームレスになれないから、せめて透明人間になりたいと思う人だ。
 G・H・ウエルズのSFは子供のときから好きで読んでいた。あんな薬ではなく永久的に透明人間になるよう、光の屈折を空気と同じに肉体を改造する。できれば、永久に透明でいたいと思う。
 影の薄い人間というのがいる。大概はその後、死んだりして、生気のない人間なのだろう。それだけでなく、個性もアイデンティティもない色彩のない人間というのもある。いてもいなくても判らないような人間ーなんと最近は若い人を中心に多いことか。
 そんなのではなく、本当に人から見えないということは素敵なことだ。
 透明人間になったら、何をしたいかということはよく訊かれる。映画館に只で入るとか、芸能人に抱きつきたいとか、そんなゲスなことではなく、見えないことを利用して神に成りすまそうかと思う。そうあれこれと考えると、暇潰しにはなった。
 透明な異星人に人間が襲われるという洋画があった。見えない敵と戦う恐怖というのは、人間たちの戦争でも同じだった。相手が見えないということは、ゴーストのように怖い。
 平和のためにはかなりの威力を発揮できると思う。そのためには神になるよりない。
 とうとう古本屋のおやじも頭にきたかと思われそうだが、それはアニメの中での話だ。
 わたしは、あまりアニメは見ない。ゲームもしないが、絶対に見ないというのでもない。いまの若者たちに人気のあるアニメがどんなことをストーリーにしているのかと興味があってちらりと見た。新しいシリーズのガンダムだという。まだやっているのかと呆れた。もう何十年やっているのだ。確か、二十年以上も前に、ガン消しというのが流行った。ガシャポンの機械をうちの古本屋の店頭にも置いたことがある。専門の問屋が頼めば置かしてくれ、月に一度、集金と補充にきて、わたしのタバコ代ぐらいはリベートを置いてゆくのだ。そのカプセルの中に入っていたのが、ガンダムロボットの消しゴムだった。子供たちは、飽きもせずに、よくやっていた。我が家の玩具箱はそんなガンダムの小さな消しゴムでいっぱいだった。
 新作のガンダムはやはり未来の地球の話だ。いつもロボットに乗っていて操縦するのは少年たちだった。子供が見るから子供が主人公でいいのだが、時にはバイクに乗ったり、車を運転したり、まだ免許を取れない年齢だから、無免許運転じゃないのかとおやじはそんなところまで見ている。子供たちが見るといっても、うちの二代目も見ているから、二十歳過ぎても見る映画なのだろう。
 それで、内容はというと、地上で戦争をしている国に乗り込んで、戦争に使われる武器や乗り物、戦闘ロボットを地上から廃絶するために、ガンダムはすべて破壊してゆくというものだった。それは、ロシアもアメリカもない。宗教上や民族の争いも関係なく、とにかく人を殺すために使われる武器に対してそれを破壊してゆくのだ。
 エヴァンゲリオンもアキラも、終末の地球を予想して描かれた。いまどきの子供たちは、いや、すでに若者で社会に出ている人も含めて、決して未来に明るい希望を持っているわけではないというのをたかがアニメだが、それを代弁しているかに見えた。未来は悲惨である。その前提で、人類が滅亡の途を歩むところから物語はいつも始まり、若者たちが、生き延びる途をまた見つけてゆくというものだ。
 どうしてもアルマゲドンの世紀末のお祭り騒ぎの影響か、そんな破滅のストーリーが多くなっていた。いまも傾向は変わらないのだろう。
 人類は一度滅んで、それから、生き残った少年少女たちが、戦争のない未来を作るというのもいい。アニメも捨てたものではない。

 わたしは幼少のときから、SFものが好きであった。NHKの夕方六時半から、確か「不思議な少年サブタン」と確かそんなタイトルの連続ドラマをやっていた。主人公の少年は時間を止められる。「時間よ、止まれ」と叫ぶと、みんなぴたりと動かなくなる。ただ、俳優さんたちはその場で様々な格好のまま止められるので、僅かに動くのだ。それを見ていたテレビの前の子供は、「あ、いま、動いたよ」と、それが演技というのも忘れて指摘するところが可笑しい。
 主人公の少年は、太田博之で、後に小僧寿司チェーンの創業者となる。ネットで調べたら、わたしと同じ世代の人がサブタンについて書き込んでいる。昭和三十年代中ごろというから、わたしの小学生のときのドラマだ。
 それより前には、外国のテレビドラマをよくNHKでは放映していたが、毎週やっていたのに、「空想科学劇場」というのがあった。
 科学を用いて、いろんな不思議な乗り物を作ったり、タイムマシンを作ったりする。子供ながらにわくわくして見ていた。
 男の子はどうしてもそんな科学的な物語には嵌る。プラモデルが出始めたときで、ロボットもあったし、特撮人形劇の「スーパーカー」も作ったことがある。
 空飛ぶ円盤も自分で作った。発泡スチロールでできた円盤にモーターと電池を入れて、プロペラで宙に浮くというものであったが、果たしてそれは浮かばなかった。
 テレビでは、「タイムトンネル」というもの毎週やっていた。トンネルに入ると未来や過去に行くことができるというもの。「海底二万哩」は映画で見たが、あれは現代では不思議でもなんでもない。
 わたしが高校二年のときにアポロが月に到着したと世界は沸いていた。もう四十年も昔の話なのだが、そのときはついに宇宙旅行が本当のものになったと、空想も夢も消えていた。
 それより不思議なことは、二十一世紀になって、今頃になり、月世界探索一番乗りと、無人ロケットを各国が飛ばしているニュースであった。四十年前に人類が月に降りたのではないか。何をいまさら騒いでいるのだ。月着陸は創作であったとする本も売れた。この四十年間、あれから月に有人飛行する計画は全くなかった。すべてがおかしい。まさに、そのことが不思議な空想科学劇場だ。

 で、わたしが透明人間になったら、神になって、正義と平和のために戦うというと、何を考えているのか古本屋のおやじということになる。いつまでも空想科学少年の心だけは健在だ。