本の買取の電話が来ると、どきどきするのは、いまも昔も変わらない。古本屋が、他人様の書斎を覗いて、その中の本をすべて処分するから持っていってくれというのには、いろいろな事情もあるが、大概は故人の蔵書だ。亡くなった親父さんが、郷土史から哲学など難しい本を相当読んでいて、研究している市井の学者でも、その息子は全く本を読まないで、親父のしてきたことも、考えていたことも理解しないし、それは紙屑より始末が悪いものと思っているのだ。
中には只でもいいからと言う遺族もいるが、逆に本を知らない、興味のない人のほうが、わけが判らないで、勝手に値打ちものと信じていたりする。
皇室の写真集は菊のご紋がついているだけで、高いと思っている。確かに、本は豪華なクロス張りで天金の大判の写真集であり、戦前のものなら、総理大臣の墨書きと大きな印鑑まで押してあるのが序として印刷されてある。恐れ多くもと、なると、こっちもかしこまるが、本としての値打ちというと実はたいしたことはない。かなり出回っている本だからだ。
これはきっと、かなりの値段がするはずだと、シロウト目にも高そうな本に、樺太や満州の写真集がある。大型本で、やたらどこからか無断転載したようなモノクロの記録写真で埋められている。定価を見ると、五万円とか七万円とある。この類には、北方領土関係、部落問題、戦争写真集などがある。
問題は、それらの本がちゃんとした出版社から出されていないということだ。聞いたこともないようななんとか研究所とか、なんとか会というような怪しげな会の名前が発行者になっている。
そんな重く立派な本をごろごろと店に持ち込む。
「これは、随分と高く買った本ばかりだ」
と、相手は買ったときの半金でも取り戻そうとしている気持ちが窺えた。
「ああ、これは、また、買わされましたな」
大抵は、暴力団がらみの資金源か、右翼の資金源だとされている。内容はまるでない。活字も大きく、写真だけがレイアウトセンスもなく、べたべたと印刷されているいわゆる訪問販売で買わされた豪華本なのだ。
相手の顔を見て、わたしはできるだけ買わないようにしている。もし、一冊百円で買うと言おうものなら、「バカにするな」と、怒るか、わなわなと震えて、うちの店の悪い噂を言いふらされるだけだ。断る口実としては、以前扱ったが売れなかったこと、いまは大型本は出ないということをはっきりと相手に言う。
カバーがないと買えない本もあるし、箱もなく揃っていないと、買えない理由はいろいろとあるが、
「どうして買えないんだ」と、怒ってくってかかる客に、いちいち説明するのも億劫だ。
「読むには箱もカバーも帯も却って邪魔ですが、買うほうとしてはちゃんと着物を着て、腰巻もしている箱入り娘を嫁にもらいたいんです。そんな、素っ裸な恥ずかしい本と思うんでしょう」
と、冗談で返すしかない。読めればいいのが本でもない。見て、触って、ときには舐め舐めして、味わうのが本だ。読むだけの目的で存在するのではないということをどう話していいものか。
古本屋が値打ちがあると思うものと、売り手がそう思うものに齟齬をきたすのは仕方がない。
わたしが宅買いに行ったときに、真新しい本ばかりが玄関に積まれているときは、がっかりする。白っぽい本とわたしたちは呼ぶが、まして、それがベストセラーものばかりなら、新品同様でも置いて逃げたくなる。
その中に一冊だけ、戦前の古書が混じっていたりすると、おやっと思う。黒っぽい本がぽつりと一冊だけあるのは不自然だ。
「これは、どうしました」
と、手にとると、『東韃紀行』という昭和十三年の本で、旧満鉄で出した原本だ。韃靼地方といえば、サハリンから間宮海峡を渡ったあたりで、中には探検した当時の地図なども折り込まれている。これは高いと直感した。
「ほかに、こうした戦前の本はなかったんですか」
わたしは、できるだけ平静を保って顔色に出さないように努めて、その家の五十代くらいの主人に訊いた。
「ああ、まだ残っていましたか。すみませんね。全部捨てたと思っていたのに」
「す、捨てた?」
「ええ、おたくが来る前にこうした古い本はすべてゴミに出しました。死んだ親父の本だったんですか、ずっと本棚の奥にあって、埃もすごかったから」
「で、いつ、どこに捨てたんですか」
わたしは、色めき立って身を乗り出した。
「今朝ですよ。もうゴミの収集車は持ってゆきましたけどね。あんな古いものがよかったんですか」
一事が万事そんな調子で売り手は新しいものほど高く買ってくれると思っているし、買い手はそんなどこにでもあるブックオフで百円均一棚に並ぶ本はピカピカでもいらないのだ。本の値打ちは希少価値でも高くなる。古い本ほど数はどんどん少なくなって、現存するのがどれほどか掴めない。現在のように、ミリオンセラーという本も昔はなかった。せいぜいが千部五百部の世界だった。太宰治だって、戦前に出した小説は、三千とかそんな数量で全国的な出版であった。太宰が有名でも、書かれた小説を読んだ人が、全国でたったの三千人というと、それしか読書人はいないのかということになる。それだけの初刷が、七十年経って、現存しているのはその何割があるのだろうか。戦災や無知の手で捨てられて、焼却されて、五十部も残っていない本はざらにある。
わたしの店に珍しい本が入ると、それを購入したお客にいつも言うのだ。
「この本は、恐らく、青森ではあなた一人しか持っていないでしょうね」
そう言われると本読みは嬉しがる。世の中にたった一冊の本となると、それは内容によっては大変な価値が出る。
本の生産と流通が違うから、戦前の古書はもともと発行部数が少ないのだ。昭和初期の円本時代から、本の大量生産、大量消費が始まるが、それとて、金持ちでなければ買えない値段だ。その辺の事務員が貰っていた月給が十何円という時代だから、一冊一円というと、いまでは一万円くらいか。とても大衆は買えない。
よく、うちに来る年寄りたちが、昔の仇をとるように古い本を買ってゆく。
「若いときは、欲しくても高くて買えなかったからね」
半世紀以上も経って、古本屋でそうした円本を五百円で見つけて喜んで買ってゆく。
どこの古本屋も看板に「高価買取」と、決まり文句のように掲げている。何を基準にして高価なのか。大手のチェーン店に行くと、最近は本が余ってきているから、買いも安い。五円とか十円といった買値になっている。
うちでも、読み捨ての文庫本などは買取は安い。やはり五円十円の世界なのだ。それはアマゾンのサイトに入れて、最低一円から出している。十円で買って一円で売る。そんな不思議な話もあるのだ。
ある新築の綺麗なお家に仕入れに伺った。古い本などありそうにない。案の定、玄関には西村京太郎から赤川次郎の推理小説の文庫本や、人気作家の話題本、タレント本などが、ピカピカだ。
「全部で三百円ですね」と、わたしは買う気も見せずに、ポケットから百円硬貨などじゃらじゃらと掌に広げて見せた。すると、奥様は驚いて、異議を申し立てる。
「あなたが前に高価買取とおっしゃったから、わたくしお願いしたのよ」
「はあ、それは硬貨買取じゃありませんか。最近はどこも不景気でして、お札の顔も忘れるくらい見ていませんです。はい」
と、古本屋のおやじはつらっと嘯く。