みんなどこかに止まった時計を隠し持っている。現在時刻を刻む時計はどんどん見えない明日へと分を進めているが、思い出の中ではいつも壊れたような動かない時計が、ある時を指し示したままだ。
 それは、地震で壊れたり、原爆で停止したままの時計のように、ある年月をさしたままなのだ。
 それはリセット時刻であった。もし、いまが壊れて修復不能になったら、その復元ポイントにいつも帰りたいと思う。
 よく聞かれる質問に、
ー過去に戻れるとしたら、いつに戻りたいか。
 ということがある。もしもという歴史にはありえない遊びなのだが、そんな願望がある人は現在が不幸か年老いた人なのだろう。
 過去が悲惨な体験ばかりしてきた人には、戻りたくないこともある。わたしの友人にひとりそれがいて、昔の話をすると怒るのだ。振り返ることばかりしてと。彼は前向きで、振り返ることは実に女々しいと憤慨する。
 それでも、一番人生で輝いていた時期というのがある。多くの人にとってはそれはやはり青春だろう。

 古本の仕入れにお邪魔した家で、わたしのことを名前で呼んだおばさんがいた。どうして名前を知っているのかと驚いたら、高校の同期生だ。旦那さんも同期で、友達夫婦なのだが、その名前を聞いても思い出すことがない。いろんな人の名前を出して、まるで記憶力テストだった。高校は受験校だったから、進路によってクラス替えがあり、授業も選択科目で変わり、大学の講義のように、ホームルームでしかみんなの顔を見ない。そんな高校だったから、同級生といってもどうも人間関係が希薄なのだ。
 その羅列した名前の中に、Uの名前が出た。ずっと忘れていた名前だ。
「あっ、どうしているだろうかなあ。密かに好きだったんだ」
 高校二年のときにクラスが一緒になった。酒井和歌子に似ているはつらつさと明るさがとても好きだった。ずっと片思いだった。
「あら、そうなの。先週もうちに遊びに来たわよ。いま、彼女、Мというの。S団地に住んでいるわ。そうそう、一緒に撮った写真があるから見せてあげる」
 と、奥から持ってきた写真には懐かしい同級生の顔が並ぶ。だが、一人しか名前は思い出せない。その中に多分そうであろうと思われるUがいた。五十半ばだから、みんないいおじさんとおばさんだ。
「実物はもっと若くて綺麗よ。そうだったんだ。彼女に教えてあげよう」
 いまさら愛の告白もない。四十年前の話だ。それが、こうして写真を見せられると、まだ綺麗な人だが、見なければよかったと思うのだ。わたしの中では、いつも女子高生で笑っていた。そんなことを思う古本屋のおやじは不気味だった。
 この夏に同級生が三人も訪ねてきたことを話し、どうして急にみんな会いに来るんだろうと、わたしが話すと、彼女は、
「きっと、子育ても終わり、みんな社会人になって結婚もして、もう親の役目も終わったし、仕事でも余裕が出てきたからじゃないかしら」
 そうか、振り返る時間がようやくできたのだ。
 懐かしい話が出たときに、わたしはもう戻れない過去へと、もう一度帰れるなら、いつがいいだろうかと空想した。わたしの時計は、十八歳の四月で止まっている。そこからすべてが始まった。それまでの十八年間は、親元に住み、親の庇護のもとに高校へ通いと、外に出たこともなく、一人暮らしをしたこともない子供なのだ。
 大学に進学し上京した四月から、就職してからの大阪時代を含めた二十三歳までの六年間が、わたしの青春だった。人よりは三年くらいは遅咲きで、ずれているかもしれない。
 戻るとすれば、あの家を出た四月に帰りたい。そうすれば、うんと本を読めるし勉強もできる。どうしてか、あれほど自由な時間がありながら、わたしは勉強も疎かにして、本もあまり読まなかった。勿体ないほどの時間を無駄にしていた。いまの気持ちで戻るなら、今度は多くの友達を作り、部屋を埋め尽くすほどの本に囲まれて、バイトもし、学生運動もしただろう。怠惰なノンポリで、暗く孤独なやつだったから、いまでいう引きこもりに近かった。一番いい時間を犠牲にしていた。
 十八で東京に出たときはもそれでも夢はあった。変なことばかり考えていた。バイクの免許を取って、アメリカ大陸をバイクで横断することを公言していて、ついに実現できなかったし、学生の分際で、事業を起こそうと、昔の友人をを訪ねて、二人で会社を作り、信州にある工芸品を売ろうとして名刺も作ったことがあったが、それも実現しなかった。途方もないことばかり考えていた。
 バイト代も少しまとまって貯まったら、十万円で五坪くらいの土地でも買おうと、ディズニーランドができる前の千葉の県境のゴミ捨て場をうろついていた。だいぶ変なやつであった。親父は息子が何を考えているのか判らないほど、おかしかったに違いない。
 二週間も誰とも会わずにひたすら部屋に閉じこもっていたり、そうかと思うと、二十歳の記念にと、いままで書き溜めた詩をタイプ印刷して、詩集を作り、新宿の地下道に座って売ろうと考えた。
 女の子を二人愛したがいずれもふられて、サントリーのレッドを三十分で一本がぶ呑みして、反吐の海を泳いでいた。泣きわめき、のたうちまわり、郷里の友人たちからは罵倒され、どうしようもない男の烙印を押された。自分でも反論ができないほど、集中攻撃をされるに任せた。
 そんなどうしようもないやつが、自分のピンチヒッターがいなかったのだ。いまのわたしなら、見るに見かねて選手交代だ。
 もう一度やり直しの人生があるとしたら、あの四月に帰りたい。やりたいことはいっぱいある。
 わたしはこのおじさんの年になって、あの頃の三倍は生きている実感があった。いまは不満ではないが、ただ、時間がない。なんでもできる自信と体力は若さの特権だ。
 
 わたしの中にある止まったままの時計は、もうひとつあり、未来のある時点を指していた。戻ることはできないが、進むことはできるのだ。そして、青春を再現することもこの先は可能だということ。自由に使える膨大な時間が洋々とあるのだ。わたしの中の時計は六十歳の四月を指していた。別にわたしに定年などないが、計画では、子供たちがすべて結婚して所帯を持ち、老父母を見送り(まだ生きていたらどうしよう)、家は息子たちに譲って、晴れて自由の身になって放浪の旅に出るというものだ。その前哨戦が、来年の秋から実は始まる。日本国内をセドリの旅に出してやると、息子が言うから、甘えさせてもらう。実質は五十七でリタイアする。
 みんなは、年金を貰うまで律儀に働こうとするが、ご隠居さんということを考えていないようだ。七十でも八十でも生涯現役で働こうとしているらしい。そんな、もういいだろう。四十年も働いて、まだ働き足りないのか。
 六十から、わたしの第二の青春が来る。
 未来時計はそれまで動かないのだ。