確かそんな車の広告のコピー文があった。子供たちに何でも買って与えるよりは、親子の思い出作りのほうが、後々まで残るのだ。親子関係は関わり方でどうにでもなる。共有のいい思い出をいっぱい作るのが、一番の財産だ。モノはいつか壊れて飽きて捨てられるが、思い出は記憶のアルバムにいつまでも焼きついている。

 マンガ家の息子たちが、インターネットラジオの番組を持っていて、たまに聴いているが、その番組の中で、二人して子供のときにわたしが連れていった、北海道のサイクリングの思い出を話していた。息子たちの三十年に満たない人生の中では、一番インパクトのある出来事だった。熱く笑いと驚きでいまだに、語っていることを思い出して、わたしは連れていってよかったと思った。

 あれは平成三年の夏の終わりだつた。長男が中一、次男が小五、三男が幼稚園のときだった。
 我が家では、毎年夏休みには必ず恒例のキャンプに連れてゆくことにしていた。古本屋はバイト君に任せて、一泊で行ってくるのだが、その年はサイクリングをしようということになった。男の子三人を鍛えるためにはいい。 いきなりサイクリングも大変だろうと、予行演習に浅虫温泉まで、市内から自転車で走った。トライアスロンだと、自転車を降りてから海まで走った。それから、沖合いの湯の島
まで、貸しボートを漕いだ。泳ぎだけはなかったが、疲れたのはわたしのほうだった。
 本番のサイクリングは北海道だ。翌年には、道南一周したが、その年は手始めに函館から恵山までの往復百三十キロに挑戦した。まあ片道ではたいしたことはない。ただ、下がまだ幼稚園で、ようやく補助輪のとれた小さな自転車だ。果たして完走できるのか。
 フェリー埠頭まで七キロはあり、テントや鍋などをがちゃがちゃ鳴らして、夜に店を終えてから走った。長距離トラックなどの大きな車ばかりの先頭部分にわたしたちの自転車四台が入った。そこですでに息子たちは緊張して目を丸くしている。
 深夜十二時に青森港を出港したフェリーは函館に早朝四時に着く。たった四時間の睡眠だが、なかなかみんな座敷にごろ寝でも眠れない。わたしはビールを、息子たちは寝小便をするから水ものは禁止。
 フェリーが着いてから、まだ薄暗い函館市街を自転車で走った。夕べ、向いのスーパーで買った弁当があった。それを湯の川温泉を過ぎたところの海岸沿の啄木公園で食べる。遥かかなたに函館山が見えていた。恵山は函館から国道二七八号線を東に走った半島の端だ。わたしは行ったことがない。高校のときに、一人で札幌までサイクリングしたことがあったが、そのときの思い出が忘れられなく、息子たちにも同じ体験をさせてやろうと思っていた。
 道路は平坦なところばかりではない。山あり谷ありで、勾配の急な上り坂は自転車を引いて歩くことにした。車ならあっという間に走る峠道も、歩いたり、ゆっくり走ったりで、一時間以上もかかったりする。それが人力のいいところだ。風景が身近で、いろんな虫や動物が見られる。
 津軽海峡に面した海岸で、猟師たちが昆布を干している。天気はよかった。時速十五キロとしても五時間もかからない。だけど、幼稚園のチビが足が痛い、疲れたと泣いてストライキだ。兄たちに、煩い、泣くなと叱られて、泣きながら小さな自転車でついてくる。 予定より早く恵山に着いた。まだ十二時前で午前中だった。恵山は海に面した火山で煙を上げている。温泉もいろいろとあった。寺院と西洋庭園とごっちゃになったようなセンスのないホテルに入った。そこのレストランでまずい昼飯を食った。わたしだけでなく、全員が疲れてものも言えない。
 少し植物園などを見学してから、海岸にある無料の小さな露天風呂に入った。海が見える露天風呂だ。地元の小学生が入っていた。息子たちは、いろいろとゲームの話をしていた。どんな田舎に行っても、子供は一緒で、ゲームボーイやファミコンのソフトの話で盛り上がる。
 村の食品店で、肉と野菜を買った。夜は海浜でテントを張ってのキャンプだった。当夜のメニューは定番のカレーだ。
 適当な砂浜を見つけて、そこにテントを張った。ところが、家も何もない。水がないから、どこかで貰ってこようと、ずっと歩いてようやく民家を見つけて水をもらった。流木を立てて鍋をかけ、みんなに燃える木片などを探させて、いつものように原始的な生活が始まる。決して固形燃料やガスボンベというものは持ち込まない。すべてサバイバルな生活体験だった。火をおこし、飯盒でご飯も炊いた。ぐずぐすしていたから暗くなった。流木の長椅子に腰掛けて、こんなところで食べるから美味しいと感じる食事をした。本当に誰もいないし、車も通らない。電灯がないから真っ暗だ。焚き火の火だけが明かりなのだ。
 恒例の花火大会もやった。ゴミはすべて持ち帰る。わたしは波の音を聴きながら、酒を飲んでいた。なかなかいいひとときだ。
 狭いテントに四人がひしめきあって寝る。砂浜だから、背中は痛くない。いつものように怖い話や面白い話を言ってきかせる。わたしはその場で実にいい加減な作り話をするのが得意だった。みんなゲラゲラ笑う。そのうちに寝てしまう。疲れているのだ。
 翌朝だ。わたしは足元が何か冷たいことに気が付いた。しかもテントが揺れている。見ると、テントの中に海水が入ってきている。ガバッと起きてテントの外に出ると、なんと、半分海に入っていた。これは大変だと、子供らを起こして、漂流しかけているテントを陸地に引き上げた。あわや津軽海峡から太平洋へと、テントごと漂流するところであった。鍋はぷかぷか浮いている。スイカの残りはすでに沖合いだ。遠浅の海浜だったのだろう。海まで十メートル以上あるから安心してテントを張ったのに、満潮になると、そこまで波が来るとは思いもしなかった。焦った。
 そのことが、いまでも息子たちには強い印象で残っているのだ。 
 帰りは来た道を戻るだけだから楽だった。昼には函館に入る。フェリーの時間は夕方発で、それまで時間があったので、美術館や五稜郭を見せる。美術館では、抽象画を見せたら、
「これ、へたくそだね。ぼくのほうがうまいよ」と、言うところなんかすごい息子たちだ。カンディンスキーもクレーも息子たちにかかれば、へたな絵になる。
 ねぶた、お盆が過ぎて、夏休みも最後になり、わたしたちはよくこうした一泊のキャンプに出かけた。八月二十日となると、観光地もいくらか空いてくる。
 それは初めてのサイクリングであったためか、笑い話として、いまも息子たちが思い出を語れば出てくる。
 モノより思い出。それは、コマーシャルだが、うちは貧乏であったから、高価なモノは買ってやれなかった。その代わり、そうした旅はわたしが好きだから、よく連れて行った。日曜の午前中には必ず、探検だと、息子三人をミステリードライブに連れて行った。どこにも連れていってもらえない子が多く、そうした息子の友達も連れて行ったりした。
 ビデオも写真もいっぱいあり、親子関係は思い出で埋め尽くされている。

 こんなことを思い出した。
 福岡から山陽道をバスジャックした少年が持っていた写真は確かそんな一枚きりの旅行の思い出のスナップであり、親子で旅行した場所まで向かう要求をしていたのが思い出されて悲しくなる。彼にはたった一度の思い出がきっと犯行の向こうに燦然と光り輝いていたのだろう。