彼は長くわたしと小説の同人仲間であった。地元の出版社の編集をしていたが、わたしとは古本屋をやる前からのつきあいだ。
同人誌でも編集長をやり、発行人の名前で出ていた。彼のいいところは、なんとか仲間のために出版を手伝おうとする親分肌のところがあったが、それが墓穴を掘ることになった。雇われ編集長は編集の権限は与えられているが、頼まれた本を出すか、また予算はいくらかというところまで決定権はない。社長以下の経営陣がいるのだが、彼は独断で仲間の本を勝手に出し続け、その出版社に多額の借金をつくってしまった。
県内の他の出版社は郷土史を主力にし、手堅くやっていたのに、彼のいる出版社は文芸専門であった。自費出版で、作者から費用の全額を貰うのであれば、別に被害はないが、共同出版、あるいは企画出版という形をとったので、売れない。詩や短歌、俳句、小説集など、地元では知られた人でも、県外に出ると無名で、しかも中央の大きな賞を取った人は皆無だった。
郷土出版物でも創作ものは売れない。それを売るためには出版記念パーティを開いて、半分くらいは売らなければ、書店ではまず売れないのだ。
文芸路線をとっている出版社はいまは危険だった。それで、やりすぎて彼は首になった。それからは、仕事がないので、わたしを借家に呼んで、大事にしていた蔵書を生活のために売るということになった。一軒家だが、二間が本でいっぱいだ。その中からまとまった金になる全集ものだけを預かってきた。高いのでは、当時はまだ値が下がっていなかった檀一雄全集があったが、それは十五万はしていた。宮沢賢治、金子光晴、日本文壇史など、思い切って彼は全集だけ三十セットをわたしに託した。それは、うちの自家製古書目録に載せられて、翌月までには大方売ってしまった。ちょうど、最初の湾岸戦争が起こったときだった。わたしはラジオのニュースで戦局を車の中で聞きながら、本を店に運んだ。売れたら代金の二割は販売手数料として貰えたが、彼には軽自動車が一台買える金額を渡した。
それから彼はタレントの付き人になった。そこでもタレント本だけでなく、副業として出版事業を始めた。
出版社にいたから、多くの書き手を知っていて、彼は客まで連れてゆく。それは、まさにクラブを辞めたホステスが客をとって自分の店を開くようなものだった。
彼は青森の人間ではなかった。ふらりと途中下車した街が弘前で、そこで住み着いていた。どうして郷里から逃げるようにしてきたのか判らないが、きっと同じことをしてきたのだろう。彼の前科は、金銭感覚がないということから起こる使い込みだ。
親父は県の部長をしていたから、きちんとした家柄なのだろうが、彼は男一人で風来坊だ。青森に来てからも、ずっとミニコミ誌で働いた。一貫して出版の仕事には就いていた。
タレントの会社で、使途不明金が数千万出たことで、彼は追われるようにして会社を去った。普通なら刑事訴訟をするところが、長くかかっても返済するという念書を書いて、彼はまた失職していた。
奥さんは保険会社にセールスレディでいい人だったので、可哀想と思い保険のつきあいを何本かしていた。娘もいたが、仕事がないので、うちでアルバイトをさせたりしていた。
その彼が、突然、行方不明になる。どこへ行ったものか。うちの店に、ある日ハガキが舞い込んだ。北海道にいるらしい。死に場所を探していると書いていた。消印は森町だった。それは大変だと、奥さんに連絡した。よろめくようにして店に来た奥さんは哀れであった。翌日、またハガキが来た。蔵書をすべて買ってくれ、それを女房に生活費として渡してくれというのだ。消印は長万部になっていた。だんだんと北上はしているが、道南辺りをうろうろしているようだ。
失踪してから一週間経って、平然とした顔で彼が夫婦で店に顔を出した。
「何かいい本が入ったかー」
全くノーテンキなやつで、反省の色がまるでない。
「なんだ、自殺したんじゃないのか。せっかく弔詞を読む準備をしていたのに」
「うるさい」と笑う。奥さんも涙ぐんでいた。
彼はそれからは仕事もなくときどき店に遊びにきたから、うちでいらない本をダンボール箱で二十箱はあげたろうか。本だけあればいい人だった。励ましのつもりであった。生活は両親を故郷から呼んで一緒に暮らしているから、年金に寄生しているのだ。家のローンも払ってもらっているようだ。
仕事を探していたが編集の仕事などなかなかあるはずもない。出版は不景気でどこも大変だった。まして、金にだらしがないやつなので、どこにも紹介できない。わたしも保証人にされて、金を借りていたし、周囲の友人たちから十万、二十万と金を借りても返していないのが数十人もいるというだらしのないやつで、友達も多くなくしていた。
問題は、何に使ったかということだ。本人は絶対に言わない。女だろうか、博打だろうか、いや、本を買いすぎたからだろう。そんな憶測が飛び交った。
ようやく彼は仕事が見つかった。八戸の印刷会社でフリーペーパーをやろうという話が出て、その編集長で彼を迎えた。単身赴任で彼は会社の寮に入り、ようやく定職ができたのだ。その新聞にわたしも艶笑譚を書いてくれという要望で、毎月書くこととなった。ところかが、彼の悪い癖がまた出てきた。同人誌時代にもみんなから顰蹙をかっていたが、彼は勝手に了解も得ずに人の書いた創作に手を入れる。それが誤字脱字ならまだしも、がらりと自分で書き直したり、詰めたりするのだ。そのことで、わたしは怒った。艶笑譚という企画を持ち出したのは彼なのだが、大幅カットして健全な文にされてしまった。伏字の検閲にあったようなものだ。そのことで、わたしは彼と絶交した。二十五年のつきあいに幕をこっちから引いてやった。いままで同情して彼のためにどれほどのことをしてやったのか、それに対する侮辱のメールが彼から来ていた。彼の親父が亡くなったときにも、電話で仕事が忙しく行けないから、葬儀の采配を頼むとわたしに言ってきた。そのときも、わたしは彼に怒鳴った。自分の親が亡くなったときに仕事もくそもあるか。そんなやつだった。
彼とそんなことがあってから、県議の友達が店に珍しくやってきて、わたしに訊くのだ。彼との関係を聞いて、わたしとグルになって、本を買い集めた手助けをしていたのではないかと、わたしに共謀容疑がかかっていた。彼の家の二間が埋もれるくらいの一万数千冊の本をみんな知っている。使途不明金の数千万円は本代に消えたのではないかとみんなが疑っている。わたしは、身の潔白を証明するために、逆に本を売ってやったことと、騙されて保証人になったことなどを話した。娘の短大の入学金で借りると嘘をついて、金を借りたが、奥さんはそれも何に使ったか判らないという。すべてが本になったのか。もう、本以外目に見えなくなっていたのか。
そのくせ、彼の書くものは稚拙だった。同人仲間も、あれほどの本に囲まれても、本当に本を読んでいるのだろうかと、疑う仲間もいた。彼の書く小説は自分の周辺ばかりつついている私小説ばかりなのだが、それは作文に思えた。
彼はまたしても、八戸の印刷屋を首になった。また何かやりすぎたのだろうか。フリーペーパーは廃刊になり、彼は新潟に出稼ぎに行っていると、奥さんから聞いた。おふくろさんも亡くなり、年金はまったく入らない。奥さんだけの給料では家のローンも払えないし、借金も返せない。やがて家も売るのだろうか。
しばらくして、古本屋仲間の例会があった。その席で同じ市内の古本屋のおやじと酒を飲んだときに、わたしの友達であった人の家に仕入れに行ったと、断ってきた。わたしに頼めないので、別の店に売ったのだ。だけど、彼の本はすべて純文学系で、初版でもない本がごろごろある。いまは小説は売れない。
「行ったが買う本があまりなくて、全集ものだけ、少し。四万円くらいかな、買ってきただけ」
後は買えないと置いてきたという。おそらくブックオフに残りの一万数千冊は引き取りに来てもらうのだろうが、買っても新しい本ばかりで、一冊十円くらいとなると、こつこつと集めた本が十万円にもならない。後はゴミなのだ。
いまはどこでどうしているものか。本で狂った転落人生、それもまた小説にはなりそうだ。
同人誌でも編集長をやり、発行人の名前で出ていた。彼のいいところは、なんとか仲間のために出版を手伝おうとする親分肌のところがあったが、それが墓穴を掘ることになった。雇われ編集長は編集の権限は与えられているが、頼まれた本を出すか、また予算はいくらかというところまで決定権はない。社長以下の経営陣がいるのだが、彼は独断で仲間の本を勝手に出し続け、その出版社に多額の借金をつくってしまった。
県内の他の出版社は郷土史を主力にし、手堅くやっていたのに、彼のいる出版社は文芸専門であった。自費出版で、作者から費用の全額を貰うのであれば、別に被害はないが、共同出版、あるいは企画出版という形をとったので、売れない。詩や短歌、俳句、小説集など、地元では知られた人でも、県外に出ると無名で、しかも中央の大きな賞を取った人は皆無だった。
郷土出版物でも創作ものは売れない。それを売るためには出版記念パーティを開いて、半分くらいは売らなければ、書店ではまず売れないのだ。
文芸路線をとっている出版社はいまは危険だった。それで、やりすぎて彼は首になった。それからは、仕事がないので、わたしを借家に呼んで、大事にしていた蔵書を生活のために売るということになった。一軒家だが、二間が本でいっぱいだ。その中からまとまった金になる全集ものだけを預かってきた。高いのでは、当時はまだ値が下がっていなかった檀一雄全集があったが、それは十五万はしていた。宮沢賢治、金子光晴、日本文壇史など、思い切って彼は全集だけ三十セットをわたしに託した。それは、うちの自家製古書目録に載せられて、翌月までには大方売ってしまった。ちょうど、最初の湾岸戦争が起こったときだった。わたしはラジオのニュースで戦局を車の中で聞きながら、本を店に運んだ。売れたら代金の二割は販売手数料として貰えたが、彼には軽自動車が一台買える金額を渡した。
それから彼はタレントの付き人になった。そこでもタレント本だけでなく、副業として出版事業を始めた。
出版社にいたから、多くの書き手を知っていて、彼は客まで連れてゆく。それは、まさにクラブを辞めたホステスが客をとって自分の店を開くようなものだった。
彼は青森の人間ではなかった。ふらりと途中下車した街が弘前で、そこで住み着いていた。どうして郷里から逃げるようにしてきたのか判らないが、きっと同じことをしてきたのだろう。彼の前科は、金銭感覚がないということから起こる使い込みだ。
親父は県の部長をしていたから、きちんとした家柄なのだろうが、彼は男一人で風来坊だ。青森に来てからも、ずっとミニコミ誌で働いた。一貫して出版の仕事には就いていた。
タレントの会社で、使途不明金が数千万出たことで、彼は追われるようにして会社を去った。普通なら刑事訴訟をするところが、長くかかっても返済するという念書を書いて、彼はまた失職していた。
奥さんは保険会社にセールスレディでいい人だったので、可哀想と思い保険のつきあいを何本かしていた。娘もいたが、仕事がないので、うちでアルバイトをさせたりしていた。
その彼が、突然、行方不明になる。どこへ行ったものか。うちの店に、ある日ハガキが舞い込んだ。北海道にいるらしい。死に場所を探していると書いていた。消印は森町だった。それは大変だと、奥さんに連絡した。よろめくようにして店に来た奥さんは哀れであった。翌日、またハガキが来た。蔵書をすべて買ってくれ、それを女房に生活費として渡してくれというのだ。消印は長万部になっていた。だんだんと北上はしているが、道南辺りをうろうろしているようだ。
失踪してから一週間経って、平然とした顔で彼が夫婦で店に顔を出した。
「何かいい本が入ったかー」
全くノーテンキなやつで、反省の色がまるでない。
「なんだ、自殺したんじゃないのか。せっかく弔詞を読む準備をしていたのに」
「うるさい」と笑う。奥さんも涙ぐんでいた。
彼はそれからは仕事もなくときどき店に遊びにきたから、うちでいらない本をダンボール箱で二十箱はあげたろうか。本だけあればいい人だった。励ましのつもりであった。生活は両親を故郷から呼んで一緒に暮らしているから、年金に寄生しているのだ。家のローンも払ってもらっているようだ。
仕事を探していたが編集の仕事などなかなかあるはずもない。出版は不景気でどこも大変だった。まして、金にだらしがないやつなので、どこにも紹介できない。わたしも保証人にされて、金を借りていたし、周囲の友人たちから十万、二十万と金を借りても返していないのが数十人もいるというだらしのないやつで、友達も多くなくしていた。
問題は、何に使ったかということだ。本人は絶対に言わない。女だろうか、博打だろうか、いや、本を買いすぎたからだろう。そんな憶測が飛び交った。
ようやく彼は仕事が見つかった。八戸の印刷会社でフリーペーパーをやろうという話が出て、その編集長で彼を迎えた。単身赴任で彼は会社の寮に入り、ようやく定職ができたのだ。その新聞にわたしも艶笑譚を書いてくれという要望で、毎月書くこととなった。ところかが、彼の悪い癖がまた出てきた。同人誌時代にもみんなから顰蹙をかっていたが、彼は勝手に了解も得ずに人の書いた創作に手を入れる。それが誤字脱字ならまだしも、がらりと自分で書き直したり、詰めたりするのだ。そのことで、わたしは怒った。艶笑譚という企画を持ち出したのは彼なのだが、大幅カットして健全な文にされてしまった。伏字の検閲にあったようなものだ。そのことで、わたしは彼と絶交した。二十五年のつきあいに幕をこっちから引いてやった。いままで同情して彼のためにどれほどのことをしてやったのか、それに対する侮辱のメールが彼から来ていた。彼の親父が亡くなったときにも、電話で仕事が忙しく行けないから、葬儀の采配を頼むとわたしに言ってきた。そのときも、わたしは彼に怒鳴った。自分の親が亡くなったときに仕事もくそもあるか。そんなやつだった。
彼とそんなことがあってから、県議の友達が店に珍しくやってきて、わたしに訊くのだ。彼との関係を聞いて、わたしとグルになって、本を買い集めた手助けをしていたのではないかと、わたしに共謀容疑がかかっていた。彼の家の二間が埋もれるくらいの一万数千冊の本をみんな知っている。使途不明金の数千万円は本代に消えたのではないかとみんなが疑っている。わたしは、身の潔白を証明するために、逆に本を売ってやったことと、騙されて保証人になったことなどを話した。娘の短大の入学金で借りると嘘をついて、金を借りたが、奥さんはそれも何に使ったか判らないという。すべてが本になったのか。もう、本以外目に見えなくなっていたのか。
そのくせ、彼の書くものは稚拙だった。同人仲間も、あれほどの本に囲まれても、本当に本を読んでいるのだろうかと、疑う仲間もいた。彼の書く小説は自分の周辺ばかりつついている私小説ばかりなのだが、それは作文に思えた。
彼はまたしても、八戸の印刷屋を首になった。また何かやりすぎたのだろうか。フリーペーパーは廃刊になり、彼は新潟に出稼ぎに行っていると、奥さんから聞いた。おふくろさんも亡くなり、年金はまったく入らない。奥さんだけの給料では家のローンも払えないし、借金も返せない。やがて家も売るのだろうか。
しばらくして、古本屋仲間の例会があった。その席で同じ市内の古本屋のおやじと酒を飲んだときに、わたしの友達であった人の家に仕入れに行ったと、断ってきた。わたしに頼めないので、別の店に売ったのだ。だけど、彼の本はすべて純文学系で、初版でもない本がごろごろある。いまは小説は売れない。
「行ったが買う本があまりなくて、全集ものだけ、少し。四万円くらいかな、買ってきただけ」
後は買えないと置いてきたという。おそらくブックオフに残りの一万数千冊は引き取りに来てもらうのだろうが、買っても新しい本ばかりで、一冊十円くらいとなると、こつこつと集めた本が十万円にもならない。後はゴミなのだ。
いまはどこでどうしているものか。本で狂った転落人生、それもまた小説にはなりそうだ。