死にたい……、消えたい……、メンタルヘルスジャンルの記事を読むと、そのような言葉を目にすることが少なくありません。その度に私は悲しい気持ちになります。それは大切な人の命を救うことが出来なかったからです。その人は自ら命を絶ちました。死へと向かう時間はどれほど苦しかったことでしょう……。誰も救ってくれない、死んでしまえば楽になれる、そんな絶望感に心を支配され、あるいは感覚さえも麻痺していたのかもしれません。

 

 死んでしまったら私たちはどこへ行くのでしょうか? どのような苦しみも終わり、どのような悲しみも消え、本当に楽になれるのでしょうか? もちろん、私は死んだことがないので分かりません。ただ、これだけははっきりと言うことが出来ます。あなたの人生はそこで終わっても、あなたの周りにいる人の人生はそれからも続くのです。あなたの記憶が刻まれたモノや景色を見て涙に暮れる人、あなたを救えなかった自分を責め続けながら生きていく人がいるということをどうか忘れないでください。

 

 しかし、だからといって、家族や周りの人間の為に、社会や世間の為に、自分だけが我慢して生きていくのも辛いことです。自分には死ぬ自由もないのかと問われたら、私には誰もが頷ける言葉を導くことが出来ません。ですから、逃げることは否定しません。学校であれ、会社であれ、今住んでいる場所であれ、そこにいることで死にたいという気持ちが湧き上がってきてしまうのならば、躊躇わずに背を向けても良いと思います。可能性は生きてこそ享受できるものです。命を絶てば救われる可能性はゼロになってしまいます。死後の景色が分からないように、未来は未知の世界です。そこにはあなたの心を救おうとする誰かがいるかもしれません。

 

 今回のお話は、以下の記事をお読みいただきました後に読み進められますことをお勧めいたします。

 

純情見習い編 第16話 捨てられたおにぎり

純情見習い編 第99話 明日を迎える

 

 

 

第79話 紺碧の靴紐

「ねぇ、このお墓は誰のお墓なの?」

「ここにはね、お父さんの大切な人が眠っているの。私は…、お母さんは…、一度しか会ったことがないけど、素敵な人だったよ」

毎年…、"彼女"の墓前でこうして手を合わせている。妻には来なくてもいいと話しているが、目を閉じて伝えたいことがあるのだろう。夫婦で悲しみを共有していると言えば聞こえは悪くない。だが、俺の胸には今も痞えが残っている。刻む必要のなかった記憶を背負わせてしまったことを許してほしい。

 

 

 

 "彼女"と最後に言葉を交わしたのは、長女が生まれるちょうど一ヵ月前だった。洗濯物を畳んでいると、妻から受話器を手渡された。

「誰から電話? 会社の人?」

「ううん…、奥山さんていう女の人」

「奥山さん? 誰だろ…」

やましいことは何もなかったが、一瞬浮かべた戸惑いの表情が妻の不安を掻き立ててしまったかもしれない。

「もしもし、お電話かわりました。清掃氏ですが…」

「もしもし…、奥山です。高1の時に同じクラスだった奥山さくらです。分かりますか?」

「あっ、いや…、分かるけど…。どっ、どうしたの?」

奥山さんとは二度目の高校での最初の一年間、同じクラスで過ごした。俺は他の高校を一度中退しているので一つ年上になり、クラスメートたちはどこか遠慮していたが、彼女だけはそんなそぶりを少しも見せずに接してくれた。それは彼女が"彼女"の幼馴染で、親しい後輩だったからだろう。

「突然電話しちゃってごめんね…。今、ちょっとだけいいかな?」

「あっ、いや…、大丈夫だけど、ウチの電話番号は誰から…」

「香織先輩に教えてもらった」

「そうだよね…、香織さんしかいないよね」

「"さん付け"なんだね」

「それはまぁ…、もう独身じゃないんだから、昔の恋人を呼び捨てにしていたら変じゃん」

「確かにそうだね」

「それで…、約二十年ぶりにくれたこの電話のご用件は?」

「結婚して幸せに暮らしている清掃氏くんに伝えていいのか、今もすごく迷っているんだけど、香織先輩の力になってあげてほしいの」

「俺が出来ることなら何でもするけど、香織さんに何かあったの?」

「うん…。私が憧れた、あんなに輝いていた香織先輩が今は…。仕事も辞めて、入退院を繰り返して…」

「えっ……………。何の病気……………」

俺は言葉に詰まってしまった。動揺を隠せなかった。誰にどう言われようとも"彼女"は人生の恩人で、結婚したからもう知りませんとは言えない。

「…先輩のお母さんから双極性障害って聞いた。ほらっ、私の家と先輩の家はすぐ近所でしょ? 小さな頃から姉妹のように育ったから…」

「あぁ、昔そう言ってたね。それで…、双極性障害って?」

「躁鬱病って言えば分かるかな…」

「分かるよ…。俺も鬱で苦しんだことがあるから…。でも…、入院するって一体どんな…」

「先輩のお母さんの話だと…、薬をたくさん飲んだり…、大きな声で泣き叫んだり…」

「……………」

「入院した時は部屋の壁に自分で頭を打ちつけて…。私…、憔悴しているお母さんの姿を見たら少しでも力になってあげたくて…」

「どうして……、いつから……」

「分からない…。でも…、清掃氏くんは香織先輩がずっと想っていた人で…、二人が再会することになった時もすごく嬉しそうに話してくれたんだよ。私も頑張れって背中を押した…」

「それは…、俺が香織さんの病の原因だってこと? そう聞こえてしまうよ…」

「違う! そんなこと言ってない! 二人が再会するまでにはすごく長い時間が経っていたから、その間に他の人を好きになっても仕方のないことだと思う。だけど、すぐには断ち切れない想いもあるよね…」

「……………」

「ごめんね…。清掃氏くんには清掃氏くんの生活があるのにね…」

「そうだね…。でも…、やっぱり知らんぷりは出来ないな…。元はと言えば…、あの時…、俺が香織さんの気持ちを考えずに…。奥山さんはそのことを知っているよね?」

「うっ、うん…。先輩から聞いた…」

「そっか…。とにかく…、妻にも香織さんの病気のことを話して手紙を書いてみるよ」

「うん…、急に連絡しちゃってごめんね」

「いや…、教えてくれてありがとう」

電話を切り、俺は話の内容を包み隠さず妻に伝えた。黙っていれば良かったのかもしれないが、昔の恋人にこっそりと手紙を書くことなど出来ない。妻は小さく頷いて、俺の胸に顔を埋(うず)めた。不安だよね…、怖いよね…、どうしてって思うよね…。

 

 

 この夜はなかなか寝付けなかった。いつも前向きで悩みなんて吹き飛ばしていた"彼女"がどうして…。いや、違う…。吹き飛ばしていたんじゃない、きっと誰にも見せずに抱え込んでいたんだ。それが積もり積もって、重みに耐えきれなくなって、胸から落ちてしまったのかもしれない。そうだとしたら、今度は俺が落ちてしまった心を拾い上げてあげたい。あの頃、投げつけた心を綺麗に磨いて返してくれたように…。

 

 

だが、なかなか手紙は送れなかった。思い出話を書いては破り、人間の温かさを説いては消し…。そもそも、きっかけは何なのだろう。仕事で大きな失敗をしたのか、それとも辛い別れでもあったのか…。何も出来ないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 

 

救いたい人を救えないって、なんて悲しいことなのだろう。俺は自分の無能さと無力さに苛まれるばかりだった。一人だったら、また心を病ませてしまっていたかもしれない。でも、俺には優しく微笑んでくれる妻がいた。妻はこんな俺に寄り添い、道を示してくれた。

「あなた…、手紙は書けたの?」

「いや、まだなんだ。どんな言葉をかければいいのか、どうしたら力になってあげられるのか、全然分からなくて…」

「じゃあ、会いに行ってみたら? 本当は会いに行ってあげたいんでしょ?」

「いや…、でも…」

「私だって正直に言えば行ってほしくない…。でも、ふさぎ込んでいるあなたを見ているのはもっと辛いから…」

「そうかもしれないけど…、行けないよ。妹子(妻)とお腹の中の赤ちゃんを置いてけぼりにして、昔の恋人に会いに行くなんて出来ない」

「でも、大切な人なんでしょ? 私はあなたが…、救えるかもしれない人を放っておくような人じゃないって知ってる」

「……………」

「私なら大丈夫! あなたがくれたネックレスも、あなたがはめてくれた指輪もあるから…」

「妹子…」

 

 

 

 

 それから二週間後、俺は"彼女"に会う為に東京へ向かった。直接電話をかけて約束をしたわけではない。奥山さんを介して連絡をして、三人で会うことにした。待ち合わせ場所の藤沢駅に着いて道行く人を眺めていると、奥山さんから電話がかかってきた。

「はい、もしもし…」

「清掃氏くん、どこにいるの?」

「蕎麦屋さんの前にいるよ。昔、学校帰りにここでよく蕎麦をすすってさ…。奥山さんは今どこ? 香織さんは一緒にいるの?」

「私は改札の所。先輩はまだ来てないよ。私の顔、分かる?」

「分かるわけない。昔の顔ならうっすらと覚えているけど…」

「今、そっちへ行くから電話はそのままね」

「うん、分かった」

「あっ、いた!」

 

 

「久しぶり! 元気そうだね」

「そうでもないのよ。教頭はうるさいし、文句ばっかり言ってくる保護者もいるし…」

「あっ、先生になったんだ。奥山さんは世話好きだから向いている気がするよ。ほらっ、あの頃もああした方がいい、こうした方がいいって注文のオンパレードだったじゃん」

「注文じゃなくてアドバイスだよ。清掃氏くんは全然聞いてくれなかったけどね。あっ、先輩だっ!」

 

 

「遅れちゃってごめんね…。清掃氏くん、久しぶり…、結婚式以来だね」

そう…、"彼女"は式場の椅子に座って拍手を送ってくれた。昔の恋人を結婚式に呼ぶのは非常識で、妻にも妻が招待した友人や親戚にも失礼だったと思う。もちろん、俺だってそんなことは分かっていた。だが、皆と一緒に祝いたいと強く懇願され、その思いを無下にすることは出来なかった。それは優しさなんかじゃなくて、弱さだろう。

「そうだね、結婚式以来だね。体は…、心は…、大丈夫? 奥山さんから聞いたよ」

「うん…、大丈夫。さくらちゃん、色々と心配をかけちゃってごめんね…。清掃氏くんに連絡してくれてありがとう。やっぱり…、私からは電話できないから…」

「先輩は私のお姉ちゃんなんですから、そんな水くさいことは言わないでくださいよ。私に出来ることがあったら何でも言ってください」

「ありがとう…。二人にね、お土産を持ってきたんだ。自分で作ったんだよ。はいっ、清掃氏くんの奥さんの分もあるよ」

"彼女"が差し出したのは、紺碧の靴紐だった。だが、手作りの靴紐を渡されても…。結婚後に昔の恋人から受け取った靴紐を喜び勇んで鳩目(靴紐を通す穴)に通せる人がいるのだろうか。俺はその真意を推し量ることが出来なかった。どうして靴紐なのか? そこにはどんな気持ちが込められているのか? この時、もっと"彼女"の心を知ろうと努めていたら、未来の景色は変えられたかもしれない。

 

 

今思えば、"彼女"は精一杯に"俺たちが知っている彼女"を演じていたのだと思う。普通の状態であることを装いたかったのだろう。心配しなくていいよ、私は大丈夫、そう伝えようとしてくれていた気がする。それは"彼女"の強さでもあるけれど、いちばんの弱さだとも言える。苦しいなら、悲しいなら、生きる希望を見つけられないなら、誰かを頼ってもいい。救いを求めることは恥などではない。何が普通かなんて決まった定義はなくて、弱い自分が普通の自分だっていいはずだ。繕っていた心を、隠していた弱さをこれでもかと見せつけてくれていたら…。だけど、悲しいかな、この時の俺には"彼女"の心を汲み取る余裕がなかった。身重の妻を残して昔の恋人と会っている自分への疑問が心の感度を鈍らせていた。三人で入った居酒屋でも何を話したのか思い出せない。覚えているのは、"それからの時間"のことだ。

 

 

 妹子(妻)はもう寝たかな? 一人にさせてしまってごめんね…。そんなことを思いながら時計の針を見ると、日付が変わる直前だった。

「もう0時になるよ。二人は帰らなくて大丈夫なの?」

「えっ、もうそんな時間?! 私は朝から仕事だからそろそろ帰らないと…。先輩と清掃氏くんは積もる話もあるだろうし、ゆっくりどうぞ。私がいたら話しにくいこともあるよね」

「いっ、いや…、それは…」

「それは何?」

「あっ、いや…、何でもない」

二人だと余計に話しにくい…、本当はそう言いたかった。だが、隣に座っていた"彼女"と目が合い、俺は言葉を飲み込んだ。

「じゃあ、また三人で会う時間を作ろうね。清掃氏くん、こっちに来る時は連絡してね。先輩、今日はありがとうございました」

「ううん…、私の方こそありがとう。さくらちゃん、仕事頑張ってね」

「はい、また近々連絡します」

奥山さんはテーブルに5千円札を置き、何度か振り返りながら店を出ていった。その姿を見ている俺の表情はどこか不安げだったのかもしれない。"彼女"が少し寂しそうな顔をして話しかけてきた。

 

 

「清掃氏くん…、大丈夫? 二人になっちゃったね…」

「あっ、いや…、俺は大丈夫だよ」

「二人なのに並んで座っているのも変な気がするね」

「そっ、そうだね…。香織は…、いや、香織さんは終電の時間大丈夫なの?」

「江ノ電の終電はもう出発しちゃってるよ」

「えっ…、どうするの? これ、使いなよ」

俺は奥山さんが置いていったお金を"彼女"に渡そうとした。

「今は働いてないけど、子供じゃないんだから大丈夫だよ。清掃氏くんは帰りたいの?」

「そういうわけじゃないけど…、ほらっ、香織さんの体調とか…」

「もう薬も飲んでないし心配しなくて大丈夫だよ。ちょっと食べ過ぎちゃったから、少し外を歩かない?」

「いいね。そうしよう!」

外へ出て景色が変われば会話を繋げられると思った。このまま座っていては時間を持て余してしまう。俺たちは会計を済ませて店を出た。夜は更けていたが、立っているだけで汗ばむくらい暑い。北海道の夏とは暑さの質が違う。

「暑いね…。清掃氏くんはどこか行きたい所ある?」

「いや、俺は別に…。どこを見ても懐かしい気持ちになるよ」

「そうだよね。じゃあ、公園へ行かない?」

「公園て…、あの公園だよね? いいけど、ここからだと結構距離あるよ。大丈夫?」

「うん」

当たり前だが、手を繋ぐわけでも肩を寄せ合うわけでもない。少し近付いたり、少し離れたり、俺たちは不自然な間隔を保ちながら深夜の街を歩いた。駅前の灯りが遠ざかると、すれ違う人もいなくなり、会話もだんだんと減っていく…。そのうちに耳に響くのは二人の足音と息遣いだけになった。

「…やっと小田急線のガード下だね」

「……………」

反応がないので振り返ると、"彼女"は泣いていた。

「だっ、大丈夫? 具合が悪くなった?」

「違うの…。あの頃は毎日この道を一緒に歩いたなって…」

「そうだね…。街の景色は少し変わったけど、香織さんが俺の人生の恩人だってことはこれからもずっと変わらないよ」

「恩人になんてなりたくなかった…。恩人て…、過去の人のことだもん。私はただ…、もう一度隣で笑いたかった…。私…、あれから誰とも付き合ってないよ。好きになってくれる人はいたけど、私はそんな気持ちにはなれなかった。清掃氏くんが最初で最後の彼氏なの」

「いや…、まだ最後じゃない。俺なんか足元にも及ばないくらい素敵な人が香織さんと出会う日を待っていると思うよ」

「待ってなくていい…」

「……………」

言葉に詰まり、視線を地面に向けた瞬間、"彼女"が胸に飛び込んできた。

 

 

「ダメだって! 香織さん…、いや、香織…、俺はさ、もう自分一人の人生じゃないんだ。帰りを待っていてくれる人がいて、新しい命もすぐそこまで…」

「ごめんね…、ごめんね…、本当にごめんね…。ねぇ…、清掃氏くん…」

「あっ…………」

 

 

「……………もうしない。……………これで終わり。……………公園に行こっ」

「……………」

俺は何も話さずに公園へ向かって歩いた。"彼女"も何一つ言葉を発しなかった。それは公園に着いてからも変わらない。黒い空が紺碧に染まるまで、ずっと黙ってベンチに座っていた。

 

 

「……………今日も暑くなりそうだね。俺は昼過ぎの便で札幌に戻るけど、香織のこと…、いつも応援しているよ。別に頑張らなくたっていい。誰かのようになりたいって思う必要もない。自分の人生を自分の歩幅で歩いていけばいいじゃん。歩くのが遅いとか早いとか、どこまで進んだとかどこで立ち止まったとか、そんなの比べても無意味だよ。人生はさ、他の誰かによって彩られていくものかもしれないけど、咲かせる花は人によって違うんだ。咲く場所も、咲く時期も、咲く花の色も違う。自分が美しいと思える花を咲かせてほしい」

「うん…。清掃氏くん…、ごめんね」

どうして"ありがとう"ではなくて"ごめんね"なのか…、この時は考えもしなかった。俺たちは公園のすぐ横にある母校の前を通り、来た道を同じように歩いて駅へ戻った。途中にあるコンビニでおにぎりを買い、それを二つに割って食べたことを覚えている。

 

 

「家の近くまで送っていこうか?」

「ううん…、ここで大丈夫」

「そっか…、気を付けて帰ってね」

「清掃氏くん…、色々とごめんね…」

「謝らなくていいよ…。今日の出来事は胸の奥にしまっておくね」

「うん…」

「頑張れとは言わない。だけど…、応援しているよ。無責任だと思われてしまうかもしれないけど、目を閉じてエールを送る人は何十人もいるわけじゃない。家族とか、恋人とか、忘れられない大切な人とか…。思うことで力を送ったり、思い浮かべて力をもらえる人は限られているよね」

「うん…、そうだね…。私も…、応援しているよ」

「ありがとう…。じゃあ…、また…」

「また…、会えたらいいね。私…、探してみるよ」

探す…? "彼女"はそう言い残して改札をくぐり、停車していた始発電車に乗った。一度も振り返ることなく…。俺はその電車がホームを後にして景色から消えるまで見送った。頑張れ…、声にしなかったその言葉を何度呟いたことだろう。

 

 

どうしてかもう会えない気がした。ただ、それは人生が交差することがなくなるという意味で、知らない場所で生きる互いの存在は少しも変わらなくて、ふとした時に思い出して心の中で話しかけるのはこれからも同じだろうと思っていた。

 

──  探すって何を? ヒト? モノ? コト? それはどこにあるの?  ──

 

復路の飛行機でも離れていく東京の街を眺めながら、そんな言葉を投げかけた。

 

 

 

 

 帰宅すると、妻が満面の笑みで出迎えてくれた。窓から玄関の新聞受けを抜けていく空気に乗って揚げ物の匂いが流れてくる。きっと俺の大好きな唐揚げを作ってくれたのだろう。

「あなた、おかえりなさい」

「うん、ただいま。会いに行かせてくれてありがとう。もう一人にさせないよ」

「大丈夫、一人じゃないから! 私たちの赤ちゃん、もうすぐ生まれるね」

「そうだね。俺が父親になるなんて、まだ実感がわかないけど…」

「私もだよ。でも、不安とか心配よりも嬉しさの方が全然大きい。私を愛してくれて、私と結婚してくれて、母親にならせてくれてありがとう」

「あっ、いや…、こちらこそ。なんか照れるね…」

「あはは」

妻は"彼女"のことを何も聞かなかった。聞かれないから話さなくてもいいという理屈はあまりに利己的だと思う。だけど、食事中も手を繋いで布団に入った後も、生まれてくる命と出会える喜びを話す妻にその日の出来事を伝えることは出来なかった。"彼女"がくれた靴紐も鞄の内ポケットにしまったまま時が流れた。それを手にしたのは長女が生まれてから半年が経った、深々と雪が降る二月のある夜だった。

 

写真: @_iori_xx21

 

 

子どもの成長は早い。両手を体の前についておすわりをしている長女にタオルを使って"いないいないばぁ"をしていると、携帯電話の着信音が部屋に響いた。

「もしもし、清掃氏です」

「奥山です。いつも急にごめんね…。今、話しても大丈夫?」

「昔の友達からの電話はいつだって突然だよね。娘を妻に見てもらうから、ちょっと待ってくれるかな」

「うん、ごめんね…」

俺は妻を呼んでタオルを渡した。少し切なそうな顔をした長女が愛しい。

「もしもし…、大丈夫だよ。待たせちゃってごめんね。どうしたの?」

「……………」

「んっ…、泣いてるの? 何が…、あったの?」

「今朝……、亡くなったの……。先輩……………、香織先輩……………」

「えっ……………」

「……………」

現実だとは思えなかった。嘘だと思いたかった。だが、誰も得しない、誰も幸せになれない、そんな嘘をつく必要はどこにもない。

「なんで…………、どうして……………、事故?」

「違う…、事故じゃない…。一つしかない…、一つしかもらえない…、かけがえのない命を自分で…」

「……………」

「来られないかもしれないけど…、お通夜と告別式の日程を教えておくね…。それを伝えるのが…、私が二人にしてあげられる最後のことだと思うから…」

奥山さんは言葉を詰まらせながら場所と時間を伝えてくれた。俺はそれを黙って聞くことしか出来なかった。電話を切った後もどこを見れば良いのか分からなくて、目を閉じて天井に顔を向けた。

 

 

「あなた…、大丈夫? 真っ青な顔をしているよ…」

「ごめん…、そのタオルを借りてもいい? 少し出てくる…」

「どっ、どこへ行くの?」

「どこへも行かないよ。ちょっとガレージへ行って車に乗ってくる」

「分かった…。すぐに戻ってきてね…」

「うん…、ごめんね。本当に少しの時間だから…」

俺は妻から受け取ったタオルを握りしめて外へ出た。リモコンのスイッチを押してシャッターが開くまでの十数秒がものすごく長かった。でも、どうしてか温かい…。行き先を探すように宙を舞う雪が肌に触れて優しく消えていく。家族の前では泣けない…。早く一人になりたくて家を飛び出してきた俺を、柔らかく包み込むかのように…。車に乗り込んでエンジンをかけると、スピーカーからドラゴンクエストの曲が流れてきた。哀調を帯びた旋律が容赦なく胸の奥底まで染み込んでいく…。

 

 

 

俺はタオルに顔を押し当てて、むせび泣いた。

 

──  死ぬって何だよ…。また会えたらいいねって…、探してみるって…、言ってたじゃん…。俺…、やっと分かったよ。キミが探していたのは、生きる理由だよね? でもさ、そんなの見つからないよ。家族の為とか、恋人の為とか、夢の為とか、色んな理由を口にする人がいるけれど、それは全部後付けで、自分に言い聞かせているだけだと思うんだ。生きる理由なんて誰にも分からないんだよ。だから…、こう思えるかじゃないかな。生きる理由はなくても、生きてみる価値はあるって…。たとえ苦しいだけの、悲しいだけの人生だったとしても、それを知ることに価値があるんだ。喜びだけが、何かを成し遂げることだけが、幸せになることだけが人生の価値じゃない。生きること…、それ自体が人生の価値なんだ ──

 

どれくらい泣いていたのだろう。心配して様子を見に来た妻が車のドアをノックする音で俺は顔を上げた。

「ごっ、ごめん…。見られちゃったね…。今、戻るよ」

「うっ、うん…」

家に戻ると、長女が不機嫌そうな顔をしていた。ほったらかしにしちゃってごめんね…、もう泣かないよ…。俺は涙で濡れたタオルを使って"いないいないばぁ"をした。

「きゃはははは、きゃはははは」

笑ってくれてありがとう。お父さんも笑ってあげないとね…。

 

 

長女を寝かしつけた後、俺は"彼女"が亡くなったこと、そしてあの夜の出来事を妻に話した。妻はじっと俺の目を見て、時折涙を拭いながら最後まで話を聞いてくれた。

「告別式…、参列してあげてね。私は娘子(長女)とお留守番をしているけど、暖かくなったらみんなでお墓参りに行こうよ」

「うん…、そうだね」

「香織さんから受け取った靴紐…、もらってもいい?」

「うん、今持ってくるね」

俺は鞄を手に取り、妻のもとへ戻った。内ポケットのファスナーだけはあの日から閉じたままだった。ここだけは時が止まっていた。ファスナーを開くと、"彼女"と過ごした時間の記憶が、"彼女"がいる紺碧に輝く空が、胸いっぱいに広がった。

「わぁ、綺麗な色だね」

「うん…、でも、分からないんだ。どうして…、靴紐をくれたのかな…」

「私…、何となく分かるよ。きっと…、一緒に歩きたかったんだと思う。自分の分も歩いてほしいって…、そんな思いを込めて作ってくれたんじゃないかな」

「……………」

「香織さんが行けなかった場所とか、見られなかった景色とか、それを届けてあげたいって思う」

「……………」

「私…、この靴紐を結んで歩くよ。あなたも…、清掃氏も…、一緒に歩いてあげて…」

「うん…」

何だか出会ったばかりの頃の"彼女"と話している気がした。

 

── 香織さん…、キミはいつもこんなふうに背中を押してくれたよね。俺はさ…、キミがいたから前へ進めたんだ。あの頃…、強がってばかりいたけど、本当は弱いって、本当は震えているって、気付いてくれたのはキミだけだったよ。でも…、それなのに…、俺はキミに何もしてあげられなくて…。それどころか…、最後の最後までキミの思いに気付いてあげることさえ出来なくて…。ごめんね…、本当にごめんね…、謝らなければいけないのは俺の方だったね。遅くなってしまったけど、これからね、妻と一緒に玄関へ行って、キミにもらった紺碧の靴紐を結んでくるよ。どこか行きたい所はある? 見たい景色があったら伝えてね。俺たちがキミを連れていくよ ──

 

 

 

「ねぇ、お父さんとお母さんの靴紐はお揃いなの? 靴は違うのに、どうして紐は同じなの?」

「それはね…」

記憶は心だけに残るものではない。物や場所に宿る記憶もある。この靴紐には…、手にしたその時から確かに記憶が刻まれていた。そして、ここにはこれからも新しい記憶が積み重ねられていくだろう。もしも子どもたちが望むなら、いつか受け継いでほしい。この紺碧の靴紐に込められた"彼女"の思いを……、俺たち夫婦が歩いた道の景色とその記憶を……。

 

 

文:清掃氏  絵:ekakie(えかきえ)  写真(雪の降る夜):@_iori_xx21

 

 

 

追記として

 誰の心にも闇はあります。だからこそ、人は光に敏感なのではないでしょうか。宝石の輝き、太陽の眩しさ、そして自分とは違う誰かへの羨望……。私だって同じです。失敗ばかりで、上手くいかないことばかりで、もう消えてしまいたいと思ったことは一度や二度ではありません。でも、それを含めて、私には経験があります。こんな私でも生きている、それを伝えたくてメンタルヘルスジャンルに記事を投稿してきました。

 

 実際に誰かの力になれているのかは分かりません。ただ、記事を読んで笑ってくれる人がいたら、明日も生きてみようと顔を上げてくれる人がいたら、それは誰かの力になれたということだと思っています。人の役に立つというのは、働いて社会に貢献することや困っている人に手を差し伸べることだけではありません。生きていく自分の姿を見せること……、それが誰かの救いになることだってあるはずです。

 

 あまり長くならないようにと書き進めましたが、気が付いたら一万字を超えていました。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 

写真: @zookomi0124

 

 

 

 

 

 

拙著発売中です!