毎日のように捨てられているおにぎりがある。アルミホイルに包まれた大きなおにぎりだ。食べないならば、作らなくて良いと伝えればそれで済む。だが、それを言葉にできない理由があるのだろう。たった一言の言えない言葉、伝えられない気持ちや思い、俺にはそれが痛いほどよく分かる。




 ごみ箱に捨てられたおにぎりを見て、俺はその過去を思い出した。俺は最終学歴こそ国立大学卒だが、優等生のお坊っちゃんだったわけではない。むしろ、その対極にある道を歩んできた。


 最初に入学した高校は半年で中退した。勉強が出来なかったわけでも、イジメに遭っていたわけでもない。当時の俺は、人とは異なる服装や髪形をしたり、教師や両親に反発をしたり、とにかく強い自分を演じることに明け暮れていた。高校に登校しなくなったのは、学校で学ぶことや学歴だけが全てではないという虚勢を張りたかったからだろう。だが、今振り返れば、本当は弱い心を隠す為に現実から逃げたに過ぎない。


 最初の高校にまともに登校したのは1ヶ月程度だった。いつもの時間に、いつものように母が作ってくれたおにぎりを鞄に入れ、何食わぬ顔をして学校へ行くふりを続けた。毎日、夕方からのアルバイトに行くまでの時間がとてつもなく長かった。ある時はゲームセンターに入り浸たり、またある時は電車の網棚の上に置かれていた新聞や雑誌を手に取り、時間を潰した。昼食はアルバイトの給料で好きなものを買うことが多かった。母が作ってくれたおにぎりは、立ち寄った駅のごみ箱に捨てていた。母は俺が学校で仲間と笑いながら、語り合いながら、食べていると信じていたことだろう。だが、俺は…。


 そんな頃、俺は文通を始めた。理由は自分でも分からない。投げやりな思いを、弱い自分を、誰かにぶつけたかったのかもしれない。だから、ただ一行を書き殴って送った。返事など来るはずがないと思ったから…。

俺は愚か者。この愚か者が手紙を書いた。

何週間か経った頃、思いもよらず返事が届いた。それはただ一行の手紙。

私はその愚か者に興味がある。だから返事を書いた。

「なかなかやるな」と思った。だから、俺はまた返事を書いた。今度は二行。

この愚か者に返事を書いたお前は何者だ?

俺はお前とは違う。希望も目標もない愚か者だ。

その返事は同じように二行。

私は希望や目標を探す者。

すぐに見つからなくてもいい、いつか必ず見つけてみせる。

何をしたいのか、何をすれば良いのか、まるで自分が分からず、まるで未来が見えなかった俺は救われた気がした。見つかるまで探せばいいのだと…。


 それから俺は夢中で手紙を書くようになった。そして、彼女から届いた十通目の手紙…、それは十行の詩だった。

擦れ違う人にぶつかった

世の中を歩いているのは私だけじゃない

たくさんの人が歩いている

たくさんの人が探している

夢を、希望を、目標を

あなただけじゃない

あなたは一人じゃない

応援してくれる人

きっとたくさんいるはず

お父さん、お母さん、そして私

俺はたまらなく悲しくなった。自分が惨めで、憐れで、情けなくて…。だが、そんな感情の奥に希望と目標を見つけた。もう一度やり直したい、彼女と同じ高校へ行きたいと…。


 俺は母に全てを打ち明けた。だが、母は全てを知っていた。学校へ登校していなかったことも、おにぎりを食べていなかったことも…。何も言わず、何も知らないふりをしていたのだ。俺は自分の愚かさと惨めさに打ちひしがれた。自分の弱さを認められる心の強さを持てるようになったのはこの時からだろう。


 この日から、俺は二度目の受験勉強に全力を注いだ。それまでは勉強をする意味がさっぱり分からなかったが、それはきっと自分を成長させる為の方法であったり、幸せになる為の一つの方法なのだと思えるようになった。この時にとても幸運だったのは、学校へ登校するふりをしていた数ヶ月間に新聞や雑誌を読み耽ったことだ。多様な著述や価値観に触れ、俺の頭は驚くほど柔軟になっていた。勿怪(もっけ)の幸いであるが、人生は何が功を奏するか分からない。


 次の桜の季節、俺は彼女と会うことができた。同い年のはずの彼女はとても大人びて見えた。彼女はなかなかクラスに馴染めなかった俺を気遣い、よく昼食に誘ってくれた。校庭を眺めながら食べた母のおにぎり、そして彼女が握ってきてくれたおにぎり、俺はその味を決して忘れない。



 だが、そんな日々はいつまでも続かなかった。俺はまた全てを壊してしまった。それは彼女と出会ってから一年が過ぎたある日のことだ。放課後、俺はいつものように彼女を送っていった。ちょうど彼女の家に着いた時、しとしとと雨が降り始めた。俺は走って駅まで戻ろうしたが、「雨が止むまで私の部屋で本でも読もう」と声をかけられ、その言葉に甘えることにした。


 この日、彼女の家族は留守だった。しかし、だからといって、そんなことは何度もあったことで、いつもと何も変わらないはずだった。だが、違った…。俺は不意に彼女を押し倒した。この日、何故こんなに彼女に欲情したのかは分からない。彼女は激しく抵抗した。彼女に思い切り頭を叩かれた時、俺はほんの一瞬だけ我に返った。彼女の顔を見ると、頬を滴る涙が見えた。俺はバケツいっぱいの水を頭から浴びせられた気がした。だが、それでも俺は自分を止めることが出来なかった。それほどまでに、彼女に欲情していた。そして、俺は…。


 最後までは…、そんなことは言い訳にもならない。この日以来、彼女が俺と言葉を交わしてくれることはなかった。何度謝っても、何十通の手紙を送っても、彼女の心に負わせてしまった傷を消すことなど出来るはずがなかった。そして、彼女は何も言わないまま卒業していった。俺はそれからの数年間、彼女に手紙を書き続けた。謝罪や復縁を願う手紙ではない。ただ自分の現況を知らせ、感謝の言葉だけを綴った。


 今、彼女がどこで何をしているのかは分からない。人づてに知ることは出来るだろう。だが、彼女の今を変えるようなことはしない。俺は…、ただ願う。「せめて温かな時を過ごして下さい、どうか幸せでいて下さい」と…。



  捨てられたおにぎりを見て、忘れることの出来ない過去が再生された。同情を買いたくて、悲劇の主人公を気取りたくて、言葉を並べたわけではない。俺は倒されるべき悪役だ。だから、償いながら生きている。俺に出来ることがあるならば、救える心があるならば、この小さな力を使っていきたい。俺はおにぎりが捨てられるその時を待った。


 昼間から夕方になる頃、おにぎりは捨てられた。捨てたのは、学校帰りの女子高生だった。どことなく陰を感じる女の子だ。

「ちょっといいかな…。 どうして捨てるの? 毎日捨てているよね?」

「捨てちゃいけないんですか? ごみ箱ですよね、これ」

「捨ててもいい。だけど、どうして捨てるの?」

「何でそんなこと話さなくちゃいけないんですか?」

「だって、悲しいでしょう…。お母さんが握ってくれたおにぎりでしょう?」

「………………」

俺は自分もおにぎりを捨てていたことを話した。

「毎日毎日、恥ずかしいんです。今時、こんなおにぎりを持ってきている人はいないんです」

「俺は逆にカッコイイと思うけどな。キャラ弁とかそういう弁当を食べている人の横でこのおにぎりを食べていたら、なかなかやるなって思うよ」

「………………」

「それにね、見た目とそこに込められている愛情は比例しないと思うよ」

「………………」

「もしもね、本当にいらないなら、お母さんにきちんと話しなよ」

「………………」

俺は捨てられたおにぎりを拾い上げ、ハンカチでアルミホイルを拭いて女の子に渡した。女の子はそれを黙って鞄に入れた。

「もう捨てちゃダメだよ。ごみ箱はごみを捨てる場所で、お母さんのおにぎりはごみじゃないよ」

「………………」

女の子は何も言わず俯いたままホームへ歩いていった。その後のおにぎりの行方は分からない。食べたのか、それとも他の場所に捨てたのか。ただ…、俺は信じたい。彼女がお母さんの握ったおにぎりを食べていることを。




あの日の俺へ


今日は放課後に雨が降ってくるぞ。だから、彼女を送らずに真っ直ぐ帰れよ。ただ一度だけでいいから、俺の願いを聞いてくれ。俺は他の誰よりもお前を知っているんだ。疑うなら、傘を持っていってみな。それを忘れなければ、きっと人生が変わるぞ。

んっ、俺か? 俺は独り善がりな善意ばかりを押し付けているお節介野郎さ。そして、ごめんな。そんなふうに余計な事ばかりしているから、お前の夢はまだ叶えられていないんだ。だけどな、俺は諦めないよ。それに…、もしも叶えられなくても、夢のままでもいいんだ。夢見ている俺が好きだからさ。いつまでもお前と同じで、夢ばかり語っていて、甘くて、生ぬるいよな…。

そうそう、ひとつ言っておくが、俺はお前が想像すらしなかった仕事をしているよ。給料も良くないし、憧れられる職業でもない。だけど、俺を必要としてくれる人たちがいるんだ。それは幸せなことだよな。

お前が必要としている人を、お前を必要としてくれる人を、傷つけるなよ。今日は…、今日だけは真っ直ぐに帰れよ。


15年後のお前より