子安宣邦は、津田左右吉の1945年の終戦から61年の彼の死に至る時期までに残した維新と明治近代をめぐる文章を読み、津田が日本の「維新」的近代に対して特殊な思想的立ち位置をもっているということに初めて気づいたという。

以下、子安氏が津田左右吉の明治維新の研究をどのように理解したのか、子安宣邦著『「維新」的近代の幻想』(2020.作品社刊)から文章を引用しながら見てみよう。

 

 

“ことに津田は明治維新を薩摩・長州という有力な封建的権力連合による武力的権力奪取(クーデター)だとし、「王政復古」とはその正当化のスローガンだとするのである。津田は明治維新を天皇という伝統的権威を利用したクーデターとして、その正統性を否定しただけではない。天皇を国家的中心に呼び戻すことで明治新政府は、天皇の名による専制的な恣意的施政を可能にしたと批判するのである。この津田の明治維新観は私の日本近代批判に大きな歴史的、思想的根拠を与えるものであった。”

 

確かに津田左右吉の明治維新に関する論文は、「薩長の輩が仕掛けた巧妙な罠に征夷大将軍(徳川慶喜)がまんまとかかってしまった」のだと、誰が読んでも薩長に対して厳しく、明治の近代化の大元の歪みを暴き立てているようだ。私たちが知っている明治維新観を塗り替えるような近代日本に対する批判的根拠を与えている。ここで子安氏は、津田左右吉の明治維新観を①王政復古を薩長のクーデターとし、②明治新政府は天皇の名を使った恣意的施政だと纏め上げている。

これらの点をもう少し詳しく、本文から抜き出してみる。

 

“津田が討幕派を「反動勢力」とするのは、むしろ幕府側に「現実の情勢に対応して日本の国家の進んでゆくべき進路を見定め、それがため幕府の従来の政治を根本的に改め」ようとする国策が成立していたのに対して、討幕派は「現実を無視した空疎な臆断と一種の狂信とによって、この国策を破壊せんとするもの」であったからである。そこから「明治維新」に向けての運動も、その達成も反動的な性格をもって規定される。恐らくこれは「明治維新」をめぐる日本人による最も否定的な規定であるだろう。

「それは法権の制度の上に立ち、そうしてそれを悪用し、戦国割拠の状態を再現することによって日本の国家を分裂に導き、また武士の制度の変態的現象ともいうべき暴徒化した志士や浪人の徒が日本の政治を攪乱し日本の社会を無秩序にすることによって、究極にはトクガハ氏の幕府の韜晦を誘致し、もしくは二、三の藩侯の力によってそれを急速に実現しようとしたことである。」(「幕末における政府とそれに対する反動勢力」より)”

 

徳川慶喜による大政奉還は、ある意味、徳川政権内部でも政治を根本的な改革を推し進めようとする兆候の現れであったが、薩長の討幕の気運は王政復古のクーデターで有無を言わせぬよう早められたというのである。多くの歴史家は、この王政復古の大号令から戊辰の役に続く騒乱を徳川封建制度を倒壊させるために必要な歴史的な「必然」として位置づけ解釈した。が、津田は歴史の現場を見定め、版籍奉還や廃藩置県、四民平等などの構想があっての討幕ではなく、「王政復古」を討幕の私的性格の隠れ蓑としたというのである。ここに津田のいう維新観と私たちの知る歴史観との違いが在る。歴史を演繹的に無自覚に解釈することのある歴史学と歴史の現場に立ち戻り、どのような思想的な判断で実行に赴いたのかを理解しようとする思想史学では、見解に違いがでるのも当たり前であろう。しかし、このことを見解の違いで済まされることではなく、津田の指摘は、歴史学の陥り易い誤謬をついたと言えるのではなかろうか。

 

“いわゆる「討幕の密勅」について津田は「浪人輩志士輩の心術態度を継承した薩長の策士が一部の宮廷人と結託しかかることをしたのは、怪しむに足りないであろう。反幕府的行動をとるものによってそれに類することのしばしば行われたのが、当時の状態であった。ただ詔勅としてはあるべからざるかかる誣罔の言を詔勅の名によって示すことが、王政を復古するに必要であったとするならば、かかる方法による王政復古には、初めから濃き暗影が伴っていたに違いない、或は不純な分子が含まれていたとしなければならぬ」とういうのである。(略)津田はさらにいうのである。「もう一歩進んでいうと、王政復古はかえって幕府討伐の名義とせられたようにさえ見えるのである。」”

 

若干、注釈をすれば、「浪人輩志士輩の心術態度」とは、水戸学などの当時の流行とも言える尊王攘夷論や勤王論を信条とする態度のことであり、「薩長の策士」「一部の宮廷人」とは、言わずもがな大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、岩倉具視などを指している。「反幕府的行動をとるものによってそれに類することのしばしば行われた」とは、京都に頻発した攘夷射ちや横浜外国人商館の焼打ち事件などを指す。ここで注目すべきは、津田が「王政復古には、初めから濃き暗影」や「不純な分子が含まれていた」といい、踏み込んで「王政復古はかえって幕府討伐の名義とせられた」と言っていることである。

子安氏は「王政復古」とは討幕派の私党的政権奪取が借りた名義であり、討幕派の揚げる偽りの旗幟だということになる。だがそういい切ることによって何が変わるのか。「王政復古」=「天皇親政」的日本近代国家の形成のあり方が変わるわけではない。だが「王政復古」を討幕派の私党的名義とする見方は、「天皇親政」的国家と其の政府について根本的批判を可能にするという。

 

“幕末に至って「誤った勤王論が一世を風靡し、その結果、いわゆる王政復古が行われて、皇室を政治の世界にひき下ろし、天皇親政というが如き実現不可能な状態を外観上成立させ、従ってそれがために天皇と政府とを混同させ、そうしてかえって皇室とを民衆とを隔離させるに至った」と津田はいうのである。(略)「トクガハ氏の家臣などが武力によって薩長政府に反抗したことにはそれだけの理由があったが、薩長政府はこういう(彼等を逆賊とする)態度をとったのである。天皇と政府との混淆は、時の政府に拠っている権力者が名を天皇にかりてその権力を用いるに恰好の事情である。」”

 

津田は「王政復古」=「天皇親政」の名によって皇室と政府との混同がもたらす明治政府の失政を激しく非難する。子安氏は、津田の歴史観を反討幕派的維新観と言い、ここに津田の反討幕派的維新観が党派的な非難をこえた根底的な批判を「王政復古」的明治専制政府と国政に向けてなされていることを指摘する。鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰の役も、政府に刃向うものみな逆賊であり、明治6年の政変後の士族の反乱、西南戦争で刃向うものも逆賊、その後の暴発した自由民権運動で政府に刃向うものもみな逆賊なのである。時の政府に拠っている権力者は、名を天皇にかりてその権力を用いるのに恰好の楯としたのである。近代日本の権力者の責任の曖昧性の歴史は、ここに始まったと言えるのではなかろうか。

 

“「天皇が政治の実権をもたれ、みずから政治の衝に当られることになると、政治上の責任はすべて天皇に帰すことになるが、それでよいのか、また天皇の政治といっても、それは天皇御一人でできるはずはなく、政府の補佐が必要であり、また政府によって執行せられねばならぬから、それは天皇と政府とを混同することになるが、その政府には何人が当りそしてどういう責任をもつのか、畢竟天皇と政府との関係をどう規定するのか。」

「オオクボ(大久保利通)が君権の強大を標榜し、イハクラ(岩倉具視)が確然不動の国体の厳守を主張しているにかかわらず、その実、彼等が維新以来ほしいままに占有してきた政権の保持を画策するに外ならなかったことを示すものである。彼等の思想は、皇室と政府とを混同し、政治の責を皇室に帰すことによって、みずから免れ、結果から見れば畢竟皇室の徳を傷つけるものだからである。そうしてそこに、いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼等の辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼等が明治時代までももちつづけてきた証迹が見える。」”

 

津田は、「王政復古」クーデターが「天皇親政」を騙った明治政府による専制的国政を可能にしたのだという。子安氏は、これらの言葉は、「王政復古」維新を近代日本国家の正統的な始まりとする日本の歴史家・政治史家に聞くことのまったくない言葉だという。子安氏が主題とする「昭和の天皇制ファシズムによる軍事的国家の成立」と、津田の言う「王政復古」維新とは決して無縁ではないだろう。何故なら、日本の近代化の歴史において、「王政復古」維新による専制国家の始まりは、昭和の天皇制ファシズム国家の確立と地続きであるからである。

この『「維新」的近代の幻想』で津田の明治維新研究に割かれている頁は、多くはない、どちらかといえば少ない方だが、この一冊の書籍の底辺に流れるものには、津田左右吉の明治維新研究との出会いによって、より力強く言葉を紡ぎ出すエネルギーに満ちあふれている。一冊総てを詳述しはしないが、いづれ機会があれば読書会で取りあげてみたいテキストである。

 

 

上の絵画は、子安氏が神宮外苑にある聖徳記念絵画館を訪ね、そこで見た「王政復古」と題された島田墨仙の描いたものである。子安氏の解説に耳傾けてみよう。

 

“大号令だ発せられた慶応三年(1867)十二月九日の夜、宮中小御所で開かれた会議の模様を写すものであった。この絵は、「王政復古」の大号令が発せられたものの、なお市政府内部に公議政体派と武力討幕派との間に徳川慶喜の処遇をめぐる対立が存在することを示すものである。公議政体派の議定山之内豊信(容堂)を討幕派公家の参与岩倉具視が激しく論難する場面が描かれている。御簾の内には元服前の若い明治天皇が描かれ、手前の一段低い上座の公家・藩主たちと異なる藩士層のものが控える形でいる。背中を見せているのが参与大久保利通だとされている。”

 

子安氏は津田左右吉の明治維新をめぐる文章を読んでいなかったら、この絵に「王政復古」=「天皇親政」とは近代日本が創り出したスキャンダラスな時代錯誤の制作物という見方はしなかったと述べている。

最後に、津田左右吉の明治維新をめぐる戦後の文章は『津田左右吉全集 第八巻』(岩波書店刊)に収録されているが、私の住まいのある地域の図書館には『津田左右吉全集』が所蔵されておらず、すぐに手に取ることはできない。幸い、最近、毎日ワンズという近代の歴史を中心に扱っている出版社から津田左右吉著『明治維新の研究』が出ている。戦後の津田の明治維新めぐる文章がほぼ収録されているので便利で、値段も手ごろで読みやすい。

 

 

 

参考までに目次と各論文のわかる範囲で発表年代を記しておく。

 

〇目次

はじめに——明治維新史の取り扱いについて  昭和22年(1947)

第一章 明治の新政府における旧幕臣の去就  昭和31年(1956)

第二章 幕末における政府とそれに対する反動勢力  昭和32年(1957)

第三章 維新前後における道徳生活の問題  昭和35年(1960)

第四章 トクガワ将軍の「大政奉還」  昭和32年(1957)

第五章 維新政府の宣伝政策  昭和33年(1958)

第六章 明治憲法の成立まで  昭和34年(1959)

おわりに——サイゴウ・タカモリ