仏教入門Ⅱ-3 法華経は摂受を旨とする?(法華経への擬難に答える) | kitani1のブログ

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日蓮正宗から折伏を受ける既存宗教は

法華経には「摂受でひろめよとある」とする。

例えば、安楽行品では文殊師利菩薩に

「末法では安楽行で説け」388

「他の法師を軽んじるな」388

とされる。

譬喩品では舎利弗に

「我見の者には此の経を説くな」174

「誹謗させて、地獄へ堕としてしまう」176

嘱累品では諸々の菩薩に対して、

「法華経を信受しない者には、別の法門を説け」519

とされている。

 

ここで誰に対して説かれているかを見る必要がある。

文殊・舎利弗・諸々の菩薩(地涌の菩薩を含む)である。

末法弘通に適さないとされて菩薩等である。

 

次に折伏が説かれていないとすると、勧持品の法難、不軽菩薩の修行・法難が摂受に当たると言える事になる。

また、法師品でも「当に説くべし」329とある。「法難はあるが衛護人が現れる」333とされている。

(法師品の柔和忍辱「如来の衣」や一切法空「如来の座」とあわないとの向きもあるが、これは法難に耐える心構えである)

つまり、摂受で説けとされているのは末法の折伏に耐えられない衆生に対してと考えるべきだろう。

また、末法においても謗法の国ばかりではない。仏法に無知な国では摂受をもっての弘教である。