法華経如来寿量品に久遠実成が説かれている。
即ち、釈尊の成道は五百塵点劫という昔に成道していた、と説かれている。
この成道を法身の久遠を説いているという人たちがいる。
法華経は法身・報身・応身の三身で考える。
法身は、真理を体現した仏。
報身は、修行の報いとして成道した仏。
応身は、仏法を説く肉体を持った仏。
となっている。
(学者によっては、法身と応身の二身で話をしていることもあるので注意が必要だ)
天台大師は
「境について法身となし、智について報身となし、起用について応身なす」(摩果止観)
としている。
釈尊は、寿量品において「久遠の昔より、何度も肉体を持った凡夫として、誕生して、修行して、成道して、仏法を説いて、涅槃した」と説いた。
これは法身ではない。
報身であり、応身の姿だ。つまり、報身・応身の久遠を説いた事になる。
法身の久遠は、迹門の多宝如来の姿で示している。遠い昔より肉身を持たずに法華経が説かれるとき出現して、真実である事を証明する。
これは法身の久遠を説いたといえる。