法華経寿量品に「我本行菩薩道」とある。
釈尊の「久遠実成」を明らかにした部分である。
法華経見宝塔品にも「其仏本行菩薩道」とある。
見宝塔品は「法身の久遠」を示している。
寿量品は「報身の久遠」を示している。
どこが違うかと言えば、
寿量品は「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽 復倍上数」と続く。
簡単にすれば、
「我、もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず。また上(かみ)の数に倍せり」
これを示した寿量品の仏(釈尊)は肉身を持っている。
見宝塔品の仏は「多宝仏」であり、肉身を持っていない。
報身仏とは菩薩の修行の結果、報いとして、智慧を得た仏だ。
寿量品では、その報いとしての智慧は「今なお未だ尽きず」と読める。
また、肉身を持っている応身仏として、智慧を説いている。応身の仏ともいえる。
と考えている。
一般には寿量品は法身の久遠を説いたと考えられている。
しかし、法身では肉身を持っている事の説明がきちんとできない。