法華経方便品の十如是の「体」とは? | kitani1のブログ

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ヤフー知恵袋で相性体の体とは?と質問があり、答えたが理解できないとの事だった。もう少しやさしく解説できなかったか反省している。

 

相性体は法華経方便品の十如是中の「如是相。如是性。如是体」の如是体の「体」である。

普通に読めばよいように思うが、一般には工夫しすぎているように思う。

 

以下私なりの回答。
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このカテゴリーでやりとりしていると、多くの方が「空」の理解が固定的でとんちんかんなやりとりになることが多くあります。

 

無量義経に「初説・中説・後説、文辞是れ一なれども、而も義別異なり」25とあるように同じ「空」といっても各経典によって義が違っています。

 

小乗経(阿含部)による空を、天台大師は概ね「折空」としているようです。
「我」の一部、例えば髪の毛を取ってみても、我を見つける事はできません。
物質の「有」にこだわっては我を見つける事ができず、それかといって「無」とすると今の自分はなんだとなります。これを「空」としているようです。

 

大日経(方等部)では、諸法実相の観点で読むと「諸法は虚空」とあります。これを「体空」としているようです。
ここの経典では「仮名」と「空」の概念で諸法を説明しているようです。
従って、大日経を信じる人は、基本的には法身と応身の二身のようです。

 

般若経では五蘊を代表した「色」と「空」の中道を示しています。
つまり、色でもなく、空でもない概念が現れています。
「因縁生の法、是を空相と名け、亦た仮名と名け、亦中道と説く」(大智度論の般若経の引用)
諸法を「空」と「仮名(仮)」と「中道」によって説明しています。
ここで、方等部の空・仮から「中道(中)」が現れています。

 

多くの人はこの「中」が説かれている事が理解できないようです。

 

空仮中の三諦が示されていますが、私が理解する上で戸惑ったのは、本によって三諦の説明が辻褄合わないように感じた事です。
相対的に見るとよい事を知り、謎が解けました。
例えば、
身体を仮、心を空とすると、中は命となります。
体の動きを仮、心を空とすると、中は身体となります。
つまり、「仮と空を統合するものを中とする」とすれば全て矛盾無く読めます。


また、物理学の世界では、物質を仮、エネルギーを空とすれば、「場」が中となります。

 

多くの人は「空」を固定化しようとして、理解が深まらないようです。

 

法華経は諸法実相を示すにあたり、十如是において、先ず相性体を示します。
これを空仮中の三諦に当てはめると「相」は仮、「性」は空、「体」は中となります。
十如是に於いて「本末究竟して等し」と、この三諦は究極の処では差別無しと円融を説きます。

 

ちなみに華厳経も円融三諦を説きますが、「心」によって「造る」とします。
法華経は「具わる」です。従って、相には性体が具わり、性には体相が具わり、体には相性が具わります。