法華経で釈尊が「久遠の昔に悟りを開いた」と説かれる。所謂、久遠実成の釈尊だ。
久遠実成は法身の久遠を説いたと考える人がいる。
(以前にも書いたような気がするが)
仏の姿を二仏で示すと真身・応身、三仏であらわすと法身・報身・応身だ。
日蓮正宗以外では真身を法身という場合があるようだ。気をつけないとかみ合わない話をしている場合がある。
また、真身を法報身とする場合もあるようだ。
ここでは三仏で考える。
法華経では法身の久遠は、多宝如来の久遠で示す。
釈尊の久遠は、報身の久遠だ。
なぜなら、釈尊はインドに迷いの凡夫として生まれる。
凡夫が仏の智慧を思い出し、成道する。この智慧は報身の姿だ。
そして、衆生に仏法を説く釈尊は応身であり、応身の久遠も説いたことになる。
迷いの凡夫として生まれず、法身の姿で顕れた多宝如来は、法身の久遠となる。