法華経序品の「無量義と名づく」大乗経とは? | kitani1のブログ

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NHKの「100分で名著」で法華経の紹介があったそうだ。


序品の「無量義と名づく」大乗経を法華経としたようで、それへの疑問があった。

これは法華経の開経「無量義経」と考える方が妥当だ。
しかし、「無量義経は偽経」とする向きがあるため、困った結果法華経にしたのではないだろうか。
以下は、無量義経が偽経に対する私の意見です。
https://ameblo.jp/kitani1/entry-12089191006.html

 

無量義経には
「無量義とは一法より生ず」
「一法とは、即ち無相なり」
「無相は、相無く、相ならず、相ならずして相無きを名づけて実相と為す」
(如是無相。無相不相。不相無相。名為実相)
とある。

解釈が難しいところだが、
「この無相とは、
『無相不相』、つまり、特に迷いの相も無く(無相)、特に悟る相もではない(不相)、差別の万法と表れた相・随縁真如であり、
『不相無相』、つまり、特に悟る相もでもなく(不相)、特に迷いの相でもない(無相)、中道実相・不変真如である。
これを名づけて実相という」
となるそうだ。

つまり、法華経の円融三諦にいたらず、無相を実相としている。
法華経では方便品で円融三諦を説く。
この無量義経の部分を法華経に組み入れると方便が混入するため別の経典としたと考えられる。

この部分を「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名づくるを説きたもう。この経を説き已って…無量義処三昧に入って…」となっていると考えられる。

 

経典を精緻に検討してみると
阿含経 我空法有 (諸法実相を示せていない)
方等部(大日経等)我空法空(諸法実相を示す)
般若部 空より仮を導き中道を示す。(空仮中)
華厳経 空仮中の円融を一部認め、心によって造られるとする。
法華経 空仮中の円融、「造」から「具」となる。

この事は無量義経に説かれる
初説四諦。為求聲聞人。而八億諸天来下聽法。発菩提心。中於処処演説甚深十二因縁。為求辟支仏人。而無量衆生発菩提心。或住聲聞。次説方等十二部経摩訶般若華厳海雲。演説菩薩歴劫修行。
と一致している。
つまり、無量義経は、阿含、方等・般若・華厳の勝劣を理解している人が説いた教えだ。
無量義経は多くが迷っている事を迷わない人、即ち釈尊の教えと考えられる。

 

また、法華経の無量義にも合致する。
経典(パズル)のピースが全てかみ合う。

釈尊の説法の全体像が示せない人の意見は、参考にならない。
所詮、凡夫の浅知恵を大学者の意見と思っているに過ぎない。
はまらないピースがあっても大丈夫な能天気な人だ。

 

インドでは仏教は完全に近い形で破壊されている。
支那でも戦乱の結果、多くの経典はなくなっている。仕方が無く日本に求めて来た事もあったようだ。日本も同様で当時引用されていた論が現在では別の形で伝わっていたりする。
インドから支那に伝わった法華経は六種類。残った法華経は三種類。インドに何種類法華経が伝わっていたか誰も知らない。
また、法顕の時代でもインドでは専ら口伝だったそうだ。その事を無視して、全て文字化されていたとして学問が成り立っている。サンスクリット語経典を重視する学者にはピースをはめることができず、阿含で留まっている。馬鹿げた話だ。