日蓮宗の「彼は脱、此は種」の読み方 | kitani1のブログ

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日蓮宗の人が

観心本尊抄「本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」656

の解釈について、大石寺に対して論難している。

http://www.homyou.hello-work.jp/ron16.html

 

種脱相待についての解釈は難しい。

相手(日蓮宗)が納得するだけの根拠を相伝書を使わず論じる必要があるからだ。

日蓮宗の論点を簡潔に示してみると

①正像時代も、末法も種熟脱だその多少に違いがあるとする。

その根拠として、「在世に於て始めて八品を聞く人天等、或は一句一偈等を聞いて下種と為し」655をあげる。また、文句に「今世を種となし、次世を熟となし、後世を脱となす」あるともする。

 

つまり、在世も下種・熟・脱があるのだから、末法も下種だけでなく熟脱があるとする。

しかし、末法は即身成仏の「南無妙法蓮華経」である事が分かっていない。在世は「次世・後世」とある事をあげている事から、末法は即身成仏を旨とする事が分かっていない。ただ、即身成仏と行っても今世の修行による。

 

②「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり」を根拠に、法華経と「南無妙法蓮華経」との勝劣がないとする。

 

これは、実際の弘教の姿と違う。

「本尊とは勝れたるを用ふべし」本尊問答抄1275とあるが、法華経を本尊とされていない。

また、「末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」上野殿御返事1219

あるいは「末法に於ては大・小・権・実・顕・密・共に教のみ有って得道無し」法華取要抄736

と、末法においては法華経ではなく、「南無妙法蓮華経」であることは明らかで、勝劣明確だ。

三大秘法抄には「延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき」1595と法華経を旨とする天台宗も益がないとされている。

 

これに対する日蓮宗の反論は

次の文を根拠に、日本国には順縁の人もいるから法華経でもよいとする。。

「逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり」法華取要抄736

 

日蓮宗は、これでは根拠にならない、という事が分からないらしい。

逆縁を成仏させる力がない法華経と逆縁も成仏させる力のある「南無妙法蓮華経」との勝劣は明らかだ。

 

日蓮宗がこのような意見になるのは、「文上・文底」の違い、「本門の二の心」、第三の跨節が理解できないために起こっていると考える。

 

結論を言うと、

「彼は脱」とは

「法華経での下種は、末法では使えない」「法華経での下種では今世の得道ではない」

 

「此は種」とは

「南無妙法蓮華経の下種は末法の逆縁に有効」

では「種」とは「文底秘沈、三大秘法の南無妙法蓮華経」である。

 

「仏の滅後に於て三時有り。正・像二千余年には猶下種の者有り。例せば在世四十余年の如し。機根を知らずんば左右無く実経を与ふべからず。今は既に末法に入って、在世の結縁の者は漸々に衰微して、権実の二機皆悉く尽きぬ。(略)而るに今時の学者、時・機に迷惑して或は小乗を弘通し、或は権大乗を授与し、或は一乗を演説すれども、題目の五字を以て下種と為すべきの由来を知らざるか」曾谷入道殿許御書778

 

注)実・実教・実経・一乗とは法華経