観心本尊抄の「為脇士」、釈尊が脇士に? | kitani1のブログ

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観心本尊抄の「為脇士」、釈尊が脇士に?

観心本尊抄は漢文体だ。
「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」

この読み方が日蓮宗と日蓮正宗と違う。
この事については、以前も書いたことがある。

 

日蓮宗では「此の時、地涌千界出現し、本門の釈尊の脇士と為して」と読むらしい。
(これ以外にもあるようだ)

 

この読み方は矛盾をはらんでいる。
「本尊此の国に立つ可し」
本尊は誰が立てるのか。当然地涌千界である。なぜなら釈尊はいない。
そうすると「地涌千界出現し、(本門釈尊為脇士)一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」となる。
途中の「本門釈尊為脇士」はどのように読めばよいのか。

 

「本門の釈尊の脇士と為して」と読むとつながらない。
「地涌千界出現し、本門の釈尊の脇士と為して、一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」これでは意味不明だ。本尊を立てるのは誰なのか。これでは釈尊と読めるが、事実は日蓮大聖人即ち地涌千界だ。

 

つまり、
「本門の釈尊の脇士と為して、本尊を此の国に立つ可し」
これでは、事実と違う。

観心本尊抄の少し前の部分にも「為脇士」がある。
「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」は
「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し」

 

「迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士」は
「迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為し」

と読み下している。


しかし、日蓮宗の「本門釈尊為脇士」は違う。
前例に反して、「釈尊の脇士と為して」と読み下している。

 

観心本尊抄の前例を踏襲すると
「釈尊を脇士と為し」と読み下すことになる。

即ち素直に「地涌千界出現し、本門の釈尊の脇士と為して、一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」と読めば、出現・立可の言葉の主体は、地涌千界とわかる。

日蓮宗では「能所」の混乱があるが気づけないのだろうか。