報恩抄「本門の教主釈尊を本尊とすべし」1036
本尊問答抄「法華経を以て本尊とするなり」1274
一見矛盾しているように見えます。
こんな時は日蓮大聖人のお振る舞いをみると真意がわかります。
例えば、大乗非仏説が正しいとして、小乗経を読むと釈尊の行動と全く一致しません。真意と違う事が簡単に分かります。
大聖人は造仏をされた事がありません。
随身仏は所持されていましたが、ご入滅後はお墓の傍に置け、とされています。
富木常忍・四条金吾・日眼女の造仏は許されましたが、後追いです。
造仏がご真意でなかった事が分かります。
四菩薩造立についても不思議な事を説かれています。
「地涌の菩薩やがて出てさせ給はんずらん。先ず其の程に四菩薩を建立」四菩薩造立抄1369
つまり「やがて出て」「其の程に」と将来の事とされて、現在は制止されています。
御講聞書「釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり。日蓮生年三十二にして自得し奉る題目なり」1837
と三十二にして上行菩薩である事を宣言されています。つまり、地涌の菩薩は出現されいるにも関わらず「造仏制止」です。
では報恩抄のご真意は何かとなります。
法華取要抄に「本門に於て二の心有り」734
とあります。つまり、「本門の教主」には二種類あるという事です。
その二種類は、
開目抄「文の底」526とある事から、「文上」「文底」の二種であり、
観心本尊抄に二種類の本門を示され、「彼は脱、此は種なり」656と「彼(釈尊)」「此(日蓮大聖人)」と分けられています。
つまり、
文上脱益の本門の教主釈尊
文底下種の本門の教主釈尊(日蓮大聖人)
です。
また「我が内証の寿量品」657と…。
この様に「本門の二種」を理解すれば、全ての御書に一貫性が見えてきます。
御講聞書「此の題目には余事を交へば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」1818
また、報恩抄の続きの「所謂宝塔の内の釈迦・多宝」1036の
「釈迦」も読めてきます。文上本門の釈尊です。
この様な目で御文を拝すると
「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経」経王殿685
「日蓮が類は釈迦如来なるべし」御講聞書1823
も御真意がわかります。
あるいは
「日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり」南條殿1569
「教主釈尊より大事なる行者」下山1159
も違って読めてきます。