日蓮宗の本尊は「久遠実成の釈尊」だそうだ。
しかし、観心本尊抄と矛盾している。
観心本尊抄では本尊の相貌(そうみょう、そうぼうとも、すがた)を明かした後、その根拠となる正宗分を示されている。
いわゆる、五重三段と言われるものだ。
三段とは経典を三つの分野に分けて読む。すなわち「序分」「正宗分」「流通分」である。
序分は経典のとっかかり?
正宗分は説く教法?
流通分は弘め方と功徳?
観心本尊抄655に
4番目に本門(法華経涌出品から終わりまでの十四品)の「序分」「正宗分」「流通分」をしめされる。
すなわち、
「又本門十四品の一経に序正流通有り。涌出品の半品を序分と為し、寿量品と前後の二半と此を正宗と為す、其の余は流通分なり」
ここで、正宗分が示す処の本尊は久遠実成の釈尊である事が分かる。
しかし、続いて同じ言葉の「本門」の序正流通について
「又本門に於ても序正流通有り」とされる。
ではここの正宗分で示す本尊は一体何となる。
日蓮宗の言い分で言えば、「久遠実成の釈尊」を重ねて二回示した事になる。
また、さらに専門的になるが、
少し前の「竹膜を隔つ」655、少し後の「彼は脱、此は種なり」656
も説明できない。
つまり、5番目の「本門に於ても序正流通有り」は文底下種の本門である。
これならば「竹膜を隔つ」「此は種」も説明できる。
また、正宗分は「文底の一品二半」となり、能く御本尊を示す文となる。
ちなみに御本尊は流通分に属す。(御本尊七箇之相承)