パンフ 仏教本来の姿 | kitani1のブログ

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仏教の本来の姿


 江戸時代に先祖供養を中心とした仏教が形成されると、本来の「仏教」は形骸化し、真実の姿が覆い隠され、人を救う力がなくなってしまいました。現在では仏教へ関心を持たない人が増えてきています。さらに、仏教学者が、それを加速させるような見解を述べています。
 しかし、人の心が乱れている今こそ、仏教をもう一度、見直す必要が出てきたのではないでしょうか。


●死後の世界はあるの?

『人に魂はなく、死んだら何もかもなくなると考えています』

 「人は機械と同じ」という考え方です。でも、死んだら何もなくなると証明した人はいません。逆にあることを証明した人はいるのでしょうか。
 「大陸は移動している」と言い始めたヴェゲナーは、認められずに亡くなりました。今では「大陸移動説」は常識となっています。これと同じように真実は、科学が発達して初めて、証明されることが多いのです。「地球は太陽の周りを回っている」とガリレオがどんなに説明しても、当時の知識人の代表の教会からは認められませんでした。現在も学者たちは、自分が信じられない現象から、目を背けています。
 大学者であるガリレオも、現代人が携帯などで使われている電波の便利さを伝えようと思っても理解できないでしょう。また、事実を見ない限り信じないでしょう。
 魂にかかわることは、科学がもっと発達しないと理解できないことであり、しかも、今まで科学者は目を背けてきました。


●心は脳で作られた幻想?

『心は脳のなかで作られている。データがそれを示しています』

 確かに、脳の働きはずいぶんわかってきました。しかし、肝心なことは何もわかっていません。
 脳に記憶があると学者は思っています。しかし、学者は記憶を取り出したり、埋め込んだりはしていません。脳に記憶があると信じているだけです。
 脳で作られる物質や働いている場所はある程度わかってきました。脳に障害ができると、記憶にも障害ができることは確かです。けれど、もしかしたら、記憶は、別のところから運ばれていて、脳は単なる通信機器かもしれません。パソコンだって、情報は一時的にパソコンの中にありますが、大量の情報は別の場所から取り出しています。
 脳以外の場所に記憶があるとは信じにくいですが、江戸時代の人にパソコンを見せると同じ感想を持ちそうです。


《学者が目を向けない現象》
●正夢(夢で出てきたことが現実に起こる)
 偶然だと確率から説明する学者がいます。しかし、確かな統計はなく、数字を都合よく並べて説明しているにすぎません。


●心臓移植で性格が移る
 詩を作ることが好きな人の心臓を移植されると、移植された人も詩を書き始めるという話です。移植手術のとき、心臓の持ち主のことを話している医師の言葉が、耳に入って影響されたと説明しています。確かめもせず、学者が信じられる範囲のことにしようとした作り話です。


●前世の記憶
 前世の記憶を持っている人がいるそうです。学者は信じられず「小さい頃に聞いた話を自分の記憶のように思っているだけだ」とします。さらに悪いことに、そのような事実が一つ見つかると他の話もすべて同じと片付けます。けれど、多くの学者は、説明できない話は取り合いません。


《仏教に矛盾なし》
仏教の教えではこれらは矛盾しません。
仏教では正しい思想を判断する原理として、文証・理証・現証があります。
・【文証】文字によって書かれていないものは信用できません。
・【理証】納得できる道理が必要です。
・【現証】現実に合わない理論はだめです。どんな大学者の理論も現実から目を背けられません。

 今の科学が認識している意識は、仏教的には六識までです。しかし、仏教には前世の記憶などもふくめ、九識まであると説かれています。また、心臓は心をつかさどると説きます。正夢は感応妙と説かれ、当然のことと考えています。学者は現実から目を背けているに過ぎません。けれど、仏教は物質や身体を否定しているわけではありません。色心不二と説明し「心と体は一体で別々のものではない」と説きます。脳の電気信号や分泌物なども心に影響され、逆に心によって電気信号や分泌物がかわると考えます。このことは医学では常識となっています。


《諸宗》
キリスト教
 聖書を読むと道理(理証)が合わないことだらけです。精神や心と肉体の関係についても何も説明できていません。仏教の知識に暗い人や精神論にひかれた人だけが信じられるものです。「全知全能の神がつくりだした不完全なアダムとイブが作った罪で、現在は苦しんでいる」などと説明になっていません。どの宗教もそれなりに道徳論、精神論はありますが、根本を説けないものは、否定されるべきです。


大乗非仏説
 「仏教の経典は釈尊(お釈迦様)が説いたものでない」という説です。
 釈尊は、学者のように理屈で考える弟子を「二乗」と言って、徹底的に破折されます。自分の浅知恵で物事を計るためです。大乗非仏説の学者は、まさに「二乗」です。
 こういう学者は、こちらが理で説明しても感情で受け入れません。頑迷で、自分が理解できないことはないことにします。
 お経は釈尊入滅後四百年経って、文字化されました。このことから「時間が経ちすぎている」と学者は考えます。しかし、日蓮大聖人や道元の伝記がつくられたのは、亡くなられて二百年後です。当時のインドでは「釈尊の言葉は文字にしてはならない」と考えていました。さらに時間がかかっても、なんら不思議はありません。また、釈尊滅後千年後に訪れた法顕も専ら、暗唱によって伝えていたとしています。しかし、学者は理解できない経典は、釈尊の言葉でないと決めてから、証拠を探しているので、当時の常識を理解しようともしません。
 「経典の言葉は、釈尊の言葉にしては新しすぎる」とも言っています。言葉を伝えると思っているからそんな間違いを犯します。釈尊は言葉ではなく、その意味を伝えなさいと遺言されています。弘める時代に理解しやすい言葉で残していくのは当然です。
 大乗非仏説を信じる学者は、小乗経だけが釈尊のお言葉を伝えていると考え、原始仏教という言葉を発明します。小乗経にとらわれて、釈尊に徹底的に破折された「二乗」そのものです。
 小乗経だけだと「空」の概念だけしか説かれていないことになります。仏法は「仮」「中」の教え、されにもっと深い「円融三諦」を説かれています。
 また、仏教の伝持は、釈尊の遺言により、釈尊の説かれた順序で伝え弘められています。まず、小乗経と言われる阿含経、続いて方等経、般若経、法華経の順序で弘められています。
 自分の知識にとらわれている学者はこのことが信じられません。しかし、釈尊は信じがたいことを信じられるよう、法華経に予言を残されました。
 釈尊が御入滅され二千年経って、釈尊の教えでは悟りを開くことができなくなる末法という時代がやってきます。上行菩薩という方は、この末法にお生まれになり、釈尊に代わって仏法を弘められます。そのとき、たびたび流罪にあうなど、法難に耐えながら、仏法を弘めることが予言されています。法華経の予言通り日蓮大聖人は末法にお生まれになられました。
 残念ながら、学者は法華経の言葉を信じることができません。信じると学者の所属する宗派の存続がなくなるからです。


『学者は「日蓮(大聖人)が生まれたのは釈尊滅後二千年経っていなかったのではないか。」と考えています』

 釈尊滅後千年が正法時代、次の千年が像法時代、続いて末法時代がやってきます。この末法の初めの五百年に、上行菩薩が出現するとされています。この説で行けば釈尊滅後二千年以降に上行菩薩が御出現なられることになります。
 釈尊の入滅の年代ははっきりしていません。歴史学では、日蓮大聖人がお生まれになったのは、釈尊滅後千七百年頃と多くの学者が考えています。
 ただ、釈尊は女性を弟子として認められるとき、正法時代は千年から五百年に短くなったと予言を変えられています。その予言だと、釈尊滅後千五百年以後が末法になります。
 末法の到来の年代を選定されたのは伝教大師・最澄の「末法灯明記」です。末法が釈尊滅後二千年後とする経典と千五百年後とする経典をあげられています。伝教大師は、当時信じられていた、中国の伝説をもとに「釈尊入滅後もうすぐ二千年になる」とされます。末法がすぐそこまできていることを悟られていた伝教大師は、当時信じられていた釈尊の入滅の年代や末法に近い世情から、年代を選定され、混乱を防いだと考えられます。当時、釈尊の入滅の年代を検討し直すことは無理がありました。


『禅を弘めた道元は「時代と関係なく、座禅によって悟れる」』

 三世を知る人が仏です。釈尊は法華経に予言を残し、法華経に説かれていることの実践こそが、悟りに至る道だとされています。釈尊の予言を無視した自分勝手な人を仏とは言いません。釈尊も「仏説に従わないのは魔の仲間だ」とされています。禅宗の人と話をすると、自己中心の話ばかりで人の話を聞きません。禅宗特有の慢心の姿です。


『法然は「末法こそ南無阿弥陀仏だ」と言っています』

 釈尊は「念仏は方便で直ちに理解できない民衆のために仮に説いた教えだ。法華経こそ真実で、法華経を説いた後は、念仏を捨てなさい」と説かれました。しかも、法華経には「法華経を誹謗する者は地獄に行く」と説かれています。しかし、法然は「法華経は邪魔だから捨てよ」と法華経誹謗した人物です。念仏を唱える人は釈尊の教えを捨てて、法然を選んだ恩知らずです。浄土宗の信者と話をすると、死んで極楽浄土を目指すためか、現実逃避し、結論や決断を求められるとぼかし、堂々巡りとなります。
 親鸞の浄土真宗の信者は、親鸞が持つ攻撃性を備えて、理で追い込むと開き直るといった攻撃性を示します。宗祖に影響された姿です。


『日蓮(大聖人)の仏法が正しいという証明はあるのですか』

 法華経の予言通りのご出現で、予言通りの振る舞いです。また、経典をひかれ、内乱や蒙古襲来の予言も的中されています。日蓮大聖人への正しい知識があれば明らかです。


『日蓮宗と言えば、身延山久遠寺が本山なのですか』

 確かに、日蓮大聖人は身延で生活をされていました。しかし、日蓮大聖人から法の付属を受けられた日興上人は、身延の地頭が、日蓮大聖人の教えに背き、日興上人の訓戒を受け入れないため、身延山を数十人のお弟子と共に離山されました。
 久遠寺は身延山に日蓮大聖人のご遺骨があると言っています。日興上人は久遠寺の貫主でした。離山に当たって重宝はすべて持って行かれています。日蓮大聖人のご遺骨を残されるはずがありません。けれど、身延にあると主張しています。あるはずのないものをあると言えるでたらめな宗派です。
 あるいは身延山久遠寺を大聖人から日興上人が譲られたことは、日興上人が、初めから住んでおられたことからもはっきりしています。それなのに「六人が月交代で貫主をつとめるようにされた」などと、あり得ない形態を主張しています。このようなでたらめが平気で言える教団に、正当な仏法が伝持されているはずがありません。


『正しい日蓮大聖人の教えはどこのありますか』

 血脈相伝を受けられた日興上人が開かれた大石寺です。ここには大聖人のご遺骨と大聖人が根本の御本尊として顕された唯一の板御本尊である戒壇の御本尊が御安置されています。また、代々の御法主は唯授一人と六十八代までにごりなく、仏法を伝えられています。


『創価学会・顕正会と関係ありますか』

 以前、どちらも日蓮正宗の信徒団体でした。しかし、自分勝手な考えを入れようとし、日蓮正宗から破門されました。日蓮正宗は貧しくとも正しく日蓮大聖人の教義を伝えることを代々、第一義にしてきました。創価学会は、会員に権力闘争のように見せかけていますが、教義違背による破門です。釈尊の説かれる通り、正法には魔が付きものと言えるかもしれません。


《末法の仏法》
 現在は釈尊の仏法に力がなくなった末法にあたります。このとき、釈尊は末法に法華経を弘めることを上行菩薩に託されました。
 上行菩薩として、お生まれになった日蓮大聖人は末法を救う根本の御本尊を顕されました。この御本尊に向かい、「南無妙法蓮華経」と唱えるとき、命の底にある仏の境涯が現れます。汚れた命、心・肉体が浄化され、本来の平らかで尊厳ある自由な自分を取り戻すことができます。