北村太一のブログ
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ミュージカルひめゆり

ひめゆり2021

年齢を重ね観るたびに感じる作品への愛情。人生であと何度観るのだろう…

ノスタルジックなオケはミュージカルナンバーとはなんぞやという基礎を教示し、時に挑発的なほどの遊びがちりばめられている。
目新しい編曲やサウンドはない。作風的に激しい印象だが、楽曲は極めて穏やかで、ドラマのみを描いている。それがいいのだと気付けるのは二回目からなので、初心者は安心してほしい。

受け手によってはナンセンスと感じられるほどの残虐な描写が要所にある、しかしこれも戦争で起きていた事実への誠意でもあろう。
死を描く際にミュージカルのダイナミズムを活かしきれているかには疑問が残る。銃撃などは終始照明と効果音が際立つ。
軍曹の死はその前から実にスリリングな心理展開と音楽で見事と思う。欧米人に見せたい。
…一つ言えるのは歴史のお勉強ミュージカルと思ってうかつに観ると痛い目を見る。
それだけ真摯に戦争を扱っている証でもある。

スタッフワークは良くも悪くも25周年という歴史を感じる。
コロナ対策で演者が減らされたようだがかえってそれが見易いステージング。
アンサンブルの距離感が広がることで受け手が感じる世界が広くなったよう。
以前から思うが、他の観客はどう学徒隊を見分けられているのだろうか。
衣裳とヘアメイクのすみわけは施されてはいるものの、大劇場の客席からは到底わからない。
群像劇だからこそ色分け、柄分け、シルエットで見せるべきではないのか。音楽では登場人物やストーリーラインそれぞれのモチーフが割り振られているだけに、各シーン冒頭が歯がゆい。

何のシーンか毎度混乱を呼ぶのは、転換の手法にも由来する。
1幕中盤以降はほとんどアリアのあるシーン毎に暗転があるため、ポップオペラというよりかはコンサート形式といえるかもしれない。  
差し出がましいくも提案するなら、登場人物の死の後だけ暗転にするとか記号化できれば、残酷さや悲しみをより効果的に伝えられると思う。大道具が実にシステマチックにスピーディーな展開を見せているだけに…。

舞台美術、劇場間口に比しては簡素ながらも、全景に大道具を飾ろうというグランドミュージカルへの敬意と意地を感じさせる。
2幕冒頭が1幕ラストと絵替わりしないのはあえての狙いなのか。ただし悪いとは思わない。
劇場の設備的にも、コロナ対策的にも客席から遠くに大道具が飾られ、従って演者も舞台奥に行く。
ほとんどのプリンシパルがセンター(ヘソ)で唄うこの演目においては観客はその距離を感じざるをえない。
ただしそれと引き換えに美術の飾りとしては美しかった。
奥行きと広がり、象徴的なシーンはどれも名画のよう。
それを彩る照明。以前の過去のバージョンより効果的が高まったよう。豊富な設備と美術の奥飾りが各シーンを美しく立体的に見せてくれた。
…上空に大道具が吊られているシーンだけはどうにかしてLEDの光源を隠せないものか…後列の席からも見えた。観客の想像の広がりを阻む可能性とは闘いたいもの。

オケもさることながら音響は文句がない。ことにマイクオペレーション。過不足なく。
帰り道で後ろ歩いてたお客が「あれマイクだったの!?みんな声でかいなーって思ってたんだぁ!」と笑い話。これ以上の褒め言葉あるのか?

今年気づいたのは、この演目、実は血糊や衝撃的な閃光、衝撃音を使ってないこと。
それなのに、観客の記憶には戦争のおぞましさが鮮明に残る。

キャスティングは自分の知る中で最も「気持ちの良いキャスティング」だった。
主演(?)をはる清水さん実力派以外の何物でもない。表情見やすい。
平川婦長、母性よりも等身大な演じ方泣けるし他を圧倒する歌唱。
佐野軍曹、生真面目&職務の犬だからこそ墜ちる狂乱は真実味。ミュージカル座イズム。

なにはともあれ、窮地に立たされた劇団が上演に漕ぎ着けたことで万感の想いだろう。

終演後の、規制退場では舞台上に現れた座員と思しきフェイスシールドを付けた女性がマイクで案内してくれたが、それが牧歌的で親しみやすくおかしかった。
名門劇場であろうと劇団公演なのだと思い出されてどことなく縮まった心が解れた。

いい観劇をしたあとは帰り道を間違える私だが、帰りの電車を2回乗り間違えたということは、何かしら残ったはず。

過去のメモを漁ったら一昨年のひめゆり考察があったので拙筆載せておく。コロナのことなんか、毛頭考えていない脳天気な文章。



「ひめゆり2019」考察
ミュージカル×戦争史
これが多くの観客が捉えるこの作品の構図だ。まずはこのダイナミックな発想を今一度、整理すると、両者の持ち合わせる要素は相反する。
ミュージカル=愉快、甘美、娯楽、大衆的、普遍性…
戦争史=悲惨、主義思想、スペクタクル…
といったところだろう。
しかしなぜか、戦争時代を扱ったミュージカルこそ大作が多く見られる。
これは、サスペンス以上に人間の死を扱う件数が多いので、ドラマチックな要素を利用できるから。
そして、戦闘機や武器によるアクション要素も欠かせない。
恋愛シーンは吊り橋効果の代表的利用法だ。
ともすれば、ミュージカルと戦争史は相性が良いのだろう。

ミュージカル給仕人

正しくはミュージカル「ウェイトレス」
2021-03-11日生劇場13時開演

キャスティングがすばらしい。主演、助演ともにタレントが大半を占めているにも関わらず、その人柄が各役の真実味を裏打してくれる。
技術はそれぞれに課題がある。が、物語のベースとなっている
「人間社会の誰しも何か問題を抱えている」
というニュアンスが妙にこちらに理解をさせてくれる。

過剰にバックボーンを描き出していないところも物語の運びに集中させている。
キャラクターの明確なすみ分けが助演陣たちの功績。
特筆は、奔放と内気な友人二人は勿論のこと、
終始自己愛に溺れる夫渡辺大輔も妙に人間的で悪役にならず悲劇を描き出す重要な担い手を好演。憎いのに最低なのに、人は恨めないという描き方はテレビタレントではできなかったはず。
コミカルリードするおばたのお兄さんは軽妙に器用であることと、台詞歌詞の単語一つで愛情深さを明確にしてくれるから1幕終盤からの登場なのに、しっかり役割を果たしてくれた。
村井國夫氏に代わって年寄役を演じた佐藤正宏氏はシニカルで日本の老人的でない要素を体現。嫌味な爺さんなのに死んだら客を泣かすなんて役者の力量。

宮野真守氏はミュージカルのニュースターのはずだか、もう中堅の安定感がある。白人男性にいそうな人柄や生真面目だったり本能的だったりコミカルもぬかりなく。歌唱はもっとでしゃばっていい。そう思わせるくらい客を取り込む力がある。

しかしこのプロダクションは高畑充希氏抜きに語るべきではない。
原作やオリジナル版を演じてきた女優にあるものはなくて無いものだけ持つという印象のはずの彼女が、不足なく役を生きていた。「役を生きる」なんて易い表現と思ってきたが、それが存在することを彼女から教わった。彼女の抱える問題や起こる事象は複雑で実に現代的だ。しかしそれを複雑にするどころか彼女がシンプルに描いて進行していく。
観客は気づかぬ間に、シーンに一喜一憂して、最終的には手放しで主人公の選択に身を委ねる。
ミュージカル女優としては実に未熟ではいる。ソロナンバーや楽曲の捉え方、肉体の使い方はいくらでも注文をつけたい。
が、そんなことより客席全員がジェナの幸福を祈っていたことがこの演目の成功だし正義。

スタッフワークはおそらく大幅な改変なくオリジナルを踏襲したようだが、日本の日生劇場で満席に客を入れるなら再考の余地はある。
客席のセンターブロックから見る分には問題ないが、下手上手ブロックの正面は殆ど黒いプロセニアム幕とスピーカーだ。
欧米の間口を再現するならサイド席を券売しないか値下げするか、美術を日本仕様にワイド広げるかの議論をすべき。クリエイティブチームが日本人でない上におそらく来日できていない状況だからこう着地したのだろうとは想像がつく。
それでいいのだろうか。数ヶ月前から14000円で1階席を予約したサイドブロックの人たちに、見切れは対処すればいいのだろうか。少なくともぼくは疎外感を感じた。

音響はボーカルをもっと聞かせてほしい。
メイン(?)スピーカーをプロセニアムまで狭めた所為もあるだろう。
劇場の特性もあるので、難しいのは承知だがダイナミズムに欠けるのは、見る者の集中を削ぐ。
モニタースピーカーを舞台前に6発も並べるくらいなら有客での出音も拘るべき。パフォーマンスがもったいない。

転換は計算されている。しかし各動作のシークエンスが微妙に音楽や心理展開とズレている。
転換の決まりきりから次シーンの開始はもっと詰めるべき。
観客は、転換にシンプルな印象をもつだろう。しかし実は各場面に些細な工夫があって関心。1幕のうちに殆どの背景を紹介しておく手法も効果的。
昇降するブラインドや食材を使った調理場面など目につく効果に力を入れたのも大衆向けでミュージカルとしては優れている。

バンドが舞台上にいたり、芝居シーンに交わるステージングは特に効果は感じられなかった。

全編通して母の声と存在が重要なモチーフなのだが、幻影の母の顔を見たらいいのか
ジェナを見るべきかわからなかった。

照明は実にわかりやすい。
視線の誘導と、次元の区分けをハッキリやってくれる。
厨房や窓際のダウンライトの灯入れも奥行きを出してくれる。
ピンはかなりこだわっていたようだが、日本人のセンターマンが世界一なのではと思うほど精密だった。
終演後の規制退場で舞台の照明をずっと染めててくれたのも世界が分断されなくてすばらしいと思った。

振付は、実はかなり注視していた。
リズムを刻まないナンバーでも細かい振りがあるような想像をしていた。
思ったほど全編通してそれがあるわけではなかったものの、要点は取りこぼしなかむた。
特にソロを唄う俳優への重心移動の振りが訳詞に関係なく音楽のカウントで指示されている。それがなんとも心地よい。
手振りも同様である。
これは日本人クリエイターは必見。

訳詞は無難。
マイクレベルの問題で4割の歌詞は聞き取れていないが充分に理解できる演目なので結果問題無い。
「年寄りの言うことを聞け」的な訳は響きも語感も秀逸だったと思った。

衣裳、ヘアメイクはプリンシパルが着替えても誰か見分けがついたので問題無し。
早替えが多いのにそれを感じさせない。
アンサンブルの半袖Tシャツは日本人にほ似合わなさすぎて稽古着のようだった。これに関しては誰の責任でもない気がするが、観客にとって親切でないことは確か。

アンサンブルは7人にも関わらず、20人いる演目との大差を感じさせない。(間口が狭いことも助けている)
歌唱とムーブメントそして表現が同時に求められる造りなので功績は大きい。小道具周りの手数も膨大で、舞台上でパイを作る演技やスピーディーな転換を叶えているのは彼ら彼女ら無しにはあり得ない。


総じて、観劇後にこうも語りたくなるのはそれが優れている公演の証拠だ。

ジャンヌ⑦ 出演者

役者を演じる出演者。
今回は本当に他意無く、それに恵まれたと思った今日だった。
攻めてるし、作 創り続けてる姿勢。
作品が求めているからか、彼らが自ずと求めているからか。

足りてない
出来てない
出来そうもない

それだけでないダメ出しばかり。
彼ら彼女らが演じなければ産まれなかったでえろうダメ出し、修正だ。

想いは上手いを超える
を実感できそう。

あとは、どう整えるか。
この責任を負えることが光栄と思えるチームになった。
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