歴史伝承 小笠原真方(さねかた)候 | 北九州再発見・ミャンマー学校支援のブログ

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小笠原真方(さねかた)候
寛永9年(1632年)、明石城主小笠原忠真(ただざね)小倉城15万石に
移封(いほう)、寛文7年(1667年)小笠原忠雄(ただたか)が二代目の
藩主になって、小倉城本丸に移り住んだ後の下屋敷(現在小倉城庭
園付近、宮本伊織も住んでいた屋敷)は、弟の分家新田藩一万石の
藩主備後守真方(さねかた)の住居でしたが、嫡男忠春が江戸屋敷から小倉に初入りをし、その下屋敷に住むことから、元禄(1688年~1704年)の終わりごろ弟の小倉新田藩小笠原真方は、「蛇の枕石」伝説のある篠屋敷に移る(「蛇の枕石」は木町公園付近にありましたが、昭和47年(1972年)篠崎神社本殿右に移設)。

 小笠原真方はこの屋敷に住んだので、小倉新田藩主のことを一般に「篠崎候」、「篠崎殿」とか「蛇の枕様」と呼ばれ、元禄以後三つの屋敷を一つの屋敷に模様替えをしました。(小倉藩史余滴などから) 
宝永6年(1709年)7月5日夜半、暴風雨によって参勤交代の新田藩主
小笠原備中守様の船が小豆島大迫恵古、夷(えびす)岩で破損。
殿様は亡くなられ、近習10名、諸手代13名、船手船頭水主8人、計32人が水死、94人が辛うじて助かり、小豆島の民家のお世話になりました。
5日朝、上田伝兵衛が事件の報告に播州室津、植野伊太夫は4日半かかって江戸へ。殿様の御尊骸は石灰、炒塩を詰めて観音寺鍵の間に安置された。
 各地の殿様たちが観音寺に見舞いに訪れ、20日には小倉から多数
訪れ、渡海船(千石船)6艘、鯨船(中型貨物)2艘、小早六艘(槍八丁立て)の船団を編成。殿様御尊骸は7月23日から28日かけて豊前小倉長浜に到着。
 小倉まで御供養の要請を観音寺住職は、病身の弱体(翌年亡)のため辞退し、弟子尭晨、尭遍を代行させた。両師は同宿の三井孫八の案内で広壽山福聚寺は参詣、夕方に正福寺に帰宿。生き残った脇船頭井上北右衛門は帰国後斬首となった。
小豆島観音寺に住職澄祥師の時代に真方候の百回忌が盛大に催されて、その記念の五輪塔が観音寺の墓地に建てられ、平成20年(2008)8月9日に300年法要として、練供養・三百年位牌。また供養・墓参・海上祭・記念植樹などの行事が行われました。
 そのお誘いを開善寺河北義道御住職から、そして資料提供していただきました。
 今回御住職はお勤めと重なり参加困難でしたが、「350年を経て明かされる小倉藩とその支藩の真相」著者池上兼正氏の御厚意から101名(今まで31名)の名簿を奉納することが出来、貴重な310回忌法要となることができました。

          「北九州再発見」民谷喜美子