311直後、私はいわき市から妹が住んでたさいたま市に一時避難した。今振り返るとあまり避難した甲斐もない場所だったが、あそこで経験したことは、自主避難するきっかけにもなった。


 いわき市では高速道路封鎖、ガソリン不足、屋内退避ばかりが報道されてたが、妹の夫は外国人なので、国外退避が必要との緊急メールが来ていた。


 さいたまから一旦いわき市に戻った時の福島復興ムードを全面に出した報道や各勉強会には不信感を抱いたし、3月に爆発したばかりなのに、催眠術にかかったかのように安全だと信じ込み、5月ぐらいから放射性物質が確実に舞い降りている土壌で農作物を作り、食べている姿は狂っているとしか思えなかった。怖がっている人はいたが、誰も意見する人はいなかった。


 みんなの手で除染して、暮らせるようにしよう、との動きばかりだった。


 自主避難には行政や東電からの補償が一切ない。唯一の支援は、地震津波による被害者に各自治体が窓口になって当時行っていた借り上げ住宅への支援だけだった。


 いわき市は地震津波への支援を受けられる場所だった。放射能汚染での支援ではない。


 行政を動かすには、どこが動けば行政をうごかせるかということを知ることだ。


 私が見たことは、放射能汚染だけではなく、あらゆることに応用できる筈だ。


 次回は偶然にも小さな成功を勝ち取った出来事を当時の記憶を掘り起こし書いてみようと思います。