「敗れざる者」
 
――それでも立ち上がるという選択

 

法律家・作家 北出茂

 

人は敗れる。
闘いに敗れ、選挙に敗れ、裁判に敗れ、人生の岐路で敗れる。

 

しかし、敗北と「敗れざること」は別である。

私は法的紛争の現場で、失意に打ちひしがれた経営者や労働者をみてきた。

解雇された労働者が肩を落として事務所を訪れる姿を何度も見てきた。

場合によっては、裁判で一部敗訴となることもある。だが、そこで人格まで敗れたわけではない。

 

「敗れざる者」とは、結果ではなく態度で決まる。
不当な行為を不当であると言い続ける者、法と制度を信じて闘い続ける者、声を上げることをやめない者である。

敗北を糧に次の一歩を踏み出す者こそ、真に敗れざる者である。


「生き続ける者」――時間を味方につける

生き続けるということは、受け身の行為ではない。
それは能動的な抵抗である。

歴史を見れば、強権的な体制や不当な慣行は永遠ではなかった。
労働基準法も男女雇用機会均等法も、最初から社会に歓迎されたわけではない。抵抗があり、嘲笑があり、「そんなものは無理だ」と言われ続けた。それでも、声を上げる人々が生き続け、活動を続けたからこそ制度は形になった。

生き続ける者は、短期的勝敗に一喜一憂しない。
時間のスパンで物事を見る。

不当解雇に泣いた人が、数年後に別の職場で輝くこともある。
会社が、労働審判をきっかけに体質改善を迫られることもある。

生き続ける者は、時間という最強の資源を味方につける者である。

「馬鹿にする者」――嘲笑という暴力

一方で、常に存在するのが「馬鹿にする者」である。

理想を語る者を「青臭い」と嘲る。
挑戦する者を「身の程知らず」と笑う。
新しい価値観を「くだらない流行」と切り捨てる。

嘲笑は一見軽い言葉のようでいて、実は深い暴力性を持つ。
それは相手の存在そのものを否定するからである。

労働現場で「そんなことで会社と争うのか」と言われ、声を失った労働者を私は見てきた。
政治の場で「どうせ変わらない」と言われ、参加をやめた若者も見てきた。

嘲笑は、挑戦の芽を摘み取る。
だが忘れてはならない。嘲笑する側は何も創造していないという事実である。

「老いてなお新たなものを馬鹿にする者」――硬直という衰退

年齢を重ねること自体は尊い。経験は財産である。
しかし、経験が固定観念に変わったとき、人は硬直する。

「昔はこうだった」
「若い者はわかっていない」
「そんな新しいやり方は邪道だ」

この言葉が口癖になった瞬間、人は学ぶことをやめている。

社会保障制度も労働法制も、時代の変化に合わせて改正されてきた。テレワーク、フリーランス、プラットフォーム労働といった新しい働き方が登場している今、旧来の枠組みだけで判断すれば現実を見誤る。

老いてなお新たなものを馬鹿にする者は、自らの可能性を閉ざしているのである。
年齢の問題ではない。姿勢の問題である。

私の立場――悪質な行為は許さない、だが嘲笑にも屈しない

私は、法は弱者の最後の砦であり、制度を通じて是正を求めることは正当な行為であると考えている。

同時に、挑戦する者を馬鹿にする風潮にも抗う。

敗れざる者であれ。
生き続ける者であれ。
馬鹿にする者になるな。
そして、老いてなお学ぶ者であれ。

敗北は恥ではない。
嘲笑こそが貧しさである。

社会は、挑戦を続ける者によって少しずつ前に進む。
私自身もまた、学び続け、変わり続ける者でありたい。

それが、勇気を与える法律家・作家としての責任である。


参照情報

・労働基準法(1947年制定)
・男女雇用機会均等法(1985年制定)
・労働契約法第16条(解雇権濫用法理)
・日本国憲法第13条(個人の尊重)
・日本国憲法第27条(勤労の権利)