正義が衝突するとき
――イラン問題をめぐる思考の責任
特定社会保険労務士・作家 北出 茂
まず大前提を明確にする。
国家による国際法違反は、いかなる国であれ許されない。
米国がベネズエラやイランに対して行ってきた一方的制裁や軍事行動が国際法違反であり、諸国との緊張関係をはらんできたことを私は厳しく批判する。
そして、ロシアによるウクライナ侵攻が国連憲章に明白に違反する武力行使であること、このことも厳しく批判されなければならない。
国際秩序は力の大小ではなく法によって支えられるべきである。ここに曖昧さがあってはならない。
ところが、マスコミの報道の中では、2026年3月以来、米国がイランに対して行ってきた軍事行動や国のトップの殺害を、相手国の民衆が望んでいたかのような描き方をしているものもある。
このことに危惧間を抱く立場から、私はもう一段深い問題を提示したい。
イラン社会の内部に併存する「二つの正義」
米国やイスラエルによるイラン攻撃を歓迎するイラン人がいる。
一方で、激しい怒りをもってこれを非難するイラン人もいる。
この現実は何を意味するのか。
それは、イランという社会の内部に、鋭く対立する複数の「正義」が同時に存在しているという事実である。
体制打倒を期待し、外部からの圧力を「解放の契機」とみなす人々がいる。彼らにとっては、現体制こそが抑圧の源であり、外圧は変革の触媒である。女性の服装規制、言論の統制、政治的反対者の弾圧に苦しんできた人々にとって、その怒りは現実的な体験に裏打ちされたものである。
しかし同時に、たとえ現政権に不満があっても、外国による軍事攻撃を主権侵害とみなし拒絶する人々もいる。国家の独立を守ることは、近代国家の根幹である。外部勢力が爆撃や軍事圧力によって政権を揺さぶることを「正義」とは認めないという立場である。
どちらか一方のみを「真の民衆」とし、他方を無知あるいは裏切り者と断ずることは、思考停止に等しい。
神権体制という構造的困難
問題をさらに重くしているのは、イランが単なる権威主義国家ではなく、宗教的正統性を国家統治の基盤とする神権体制であるという点である。
イランの統治構造は、シーア派イスラム法学者による統治理論(ヴェラーヤテ・ファギーフ)を根幹とする。ここでは政治的正統性は選挙結果だけでなく、宗教的資格と神学的解釈に結びつく。政治的異議申し立ては、しばしば宗教秩序への挑戦と理解される。
ここでの「正義」は世俗的な政策論争を超え、神学的正統性と結びつく。ゆえに対立は単なる政権批判にとどまらず、信仰秩序への攻撃と受け止められやすい。
この構造は、外部からの軍事的圧力が内部対立を単純化させる危険をはらむ。外敵が現れれば、国内の異論は「裏切り」とみなされやすくなるからである。
国際法違反の是非を超えた問題
イラン問題は単なる国際法違反の有無という形式論ではない。
宗教国家のもとで抑圧に苦しむ人々の正義と、外部からの武力行使に抗う正義とが真正面から衝突しているのである。
ここで善悪二元論に回収することは極めて危うい。
「攻撃を歓迎する者こそ真の民主主義者である」と断じるのも、「外圧に怒る者こそ愛国者である」と単純化するのも、どちらも現実を切り捨てる態度である。
私は法的紛争の現場で、単純化がいかに事態を悪化させるかを見てきた。
両当事者は、どちらも一定の合理性を持つ。
だが、相手の正義を全否定した瞬間に、解決の道は閉ざされる。
国家間でも同じである。
日本国憲法が埋め込んだ「抑制の思想」
ここで思い起こすべきは日本国憲法の構造である。
国家が特定の宗教的正統性を担わないこと(政教分離原則)。
武力によって正義を実現しようとしないこと(憲法9条)。
主権を超越的存在ではなく国民に置くこと(国民主権)。
これらは単なる理念ではない。「正義の絶対化」への制度的な警戒である。
国家が自らを絶対的正義の担い手と位置づけた瞬間、異論は敵となる。
宗教的であれ革命的であれ、正統性を絶対化する思想は内外に緊張を生む。
革命的正統性という鏡
「宗教的正統性」を「革命的正統性」に置き換えれば、話はベネズエラにも当てはまる。
ボリバル主義革命を歴史的使命と位置づける体制は、反対者をしばしば革命の敵とみなす構造を持つ。理念の絶対化は、内部の分裂を生みやすい。
左翼運動における内ゲバの歴史も、究極的には「自らの正義の絶対化」がもたらした悲劇である。相手を誤った同志ではなく、排除すべき敵とみなす思考が暴走した結果である。
これは右であれ左であれ同じである。宗教であれ革命であれ同じである。
私の立場――悪質な行為は許さないが、単純化もしない
私は明確に言う。
国家による侵略、民間人への攻撃、抑圧的統治、いずれも許されない。悪質な行為には断固として対峙すべきである。
しかし同時に、複雑な社会を単純な善悪で切り分ける態度もまた危険である。
正義が衝突する現実を直視し、制度と法によって調整しようとする姿勢こそが成熟である。
自らの正義を絶対視し、敵対する側を歴史の敵とみなす思考こそが最も危うい。
イラン問題を考えることは、国際政治の賛否を超えて、「正義と国家」の関係を問い直す営みである。
その抑制の思想を制度として組み込んだものが、現行憲法である。
力ではなく法で。
激情ではなく制度で。
それが、私が選び続ける立場である。
参照情報
・国際連合憲章第2条4項(武力行使の禁止)
・ロシアによるウクライナ侵攻に関する国連総会決議(2022年)
・イラン憲法およびヴェラーヤテ・ファギーフ理論
・ベネズエラ憲法およびボリバル主義体制の統治構造
・日本国憲法前文、第1条、第20条、第41条、第9条