正義は一つではない
――宮沢俊義に学ぶ「闘争」と「共存」の分岐点
法律家・作家 北出茂
日本国憲法学の大家である宮沢俊義は、その名著『憲法講話』において、正義が時と所によって多様であることを知った人間は、二つの道のいずれかを選ばざるを得ないと述べている。
この洞察は、単なる憲法学の理論的命題ではない。現代日本社会における政治対立、労使紛争、宗教問題、さらには市民運動のあり方にまで射程を持つ、極めて実践的な指針である。
私は法律実務家として数多くの法的紛争の現場に立ち会ってきた。そこでは常に「双方の正義」が衝突している。
相続(遺産分割)の現場では、遺族同士が自分の側の正当性を主張する。
労働トラブルの現場では、会社は会社の正義を語り、労働者は労働者の正義を訴える。どちらも自らを被害者と認識していることすら珍しくない。
まさに宮沢の指摘は、机上の理論ではなく、現実社会の縮図なのである。
第一の道――正義の絶対化と闘争の論理
第一の道とは、自らの正義を絶対化し、それをどこまでも勝たせようとする態度である。
この立場に立つとき、相手の正義は誤りであり、時に悪であると位置づけられる。反対者もまた同じ確信を抱くため、双方は「うちてしやまん」という精神状態に陥る。
この態度は、カント的義務論や純粋な正義論、いわゆる信条倫理(心情倫理)と親和性を持つ。
結果がどうなろうとも、原理を貫徹することが最優先されるのである。理念の純粋性は守られるかもしれないが、社会は分断される。最終的には多数決、権力闘争、あるいは物理的な力による決着へと接近する危険を内包する。
労働現場でいえば、経営者が「経営判断は絶対である」とし、労働者が「労働者の権利は絶対である」と譲らない場合、争いは調停不能となる。あっせんや団体交渉は決裂し、訴訟や長期紛争へと進む。
正義の絶対化は、当事者双方に疲弊と損失をもたらすのである。
政治の世界でも同様である。理念の絶対性を強く掲げやすい政治運動や宗教的政党は、構造的に第一の道と親和性を持ちやすい。たとえば宗教政党やイデオロギー政党は、綱領や理論体系の整合性を重視し、思想的一貫性を強みとする。一方で、その強度ゆえに内部民主制や異論との調整のあり方が常に問われ続けてきた歴史もある。
しかし重要なのは、理念を持つこと自体が問題なのではないという点である。
問題は、それを「唯一無二の正義」として他を排除するか否かである。
第二の道――相対性の自覚と制度的調整
これに対して第二の道は、自らの正義を保持しつつも、その相対性を自覚する態度である。異なる正義の存在を承認し、衝突を前提としながらも、暴力ではなく制度とルールによって調整しようとする道である。
これは帰結主義や責任倫理と親和的である。結果として社会全体の損失を最小化するために、妥協や調整を受け入れるのである。そこには理想の愛や完全な和解は存在しない。むしろ「対立すれば双方が損をする」という冷静な現実認識がある。しかし、その現実的判断こそが、多元的社会における平和共存の条件となる。
日本国憲法における「公共の福祉」は、その制度的表現である。権利は絶対ではなく、他者の権利との調整の中で具体化される。ここに立憲主義の成熟がある。
労働法制もまさにこの思想の上に築かれている。解雇権濫用法理は、企業の経営自由を否定しないが、それが社会通念上相当性を欠く場合には無効とする。
団体交渉制度は、闘争を否定しないが、無秩序な力の応酬を制度内に取り込むことで暴発を防いでいる。これは第二の道の制度化である。
成熟とは何か――自制できるかどうか
理念や教義の絶対性を掲げること自体は、政治的自由の範囲内である。
だが立憲主義社会の成熟度は、第一の道に傾きがちな運動が、実践において第二の道へと自制的に転換できるかどうかにかかっている。
私が現場で学んだ教訓は明快である。
悪質な行為――不当解雇、差別、搾取、権力の濫用――に対しては断固として対峙しなければならない。ここで曖昧さは許されない。しかし、その是正方法が制度を踏み外し、法秩序そのものを軽視するならば、それは新たな不正義を生む。
勇気とは、声を荒げることではない。自らの正義を問い直す勇気、相手の存在を認める勇気、そして制度の中で闘う勇気である。
宮沢俊義が示した二つの道は、いまなお私たちの前にある。
力でねじ伏せるか、制度で調整するか。分断を深めるか、共存の条件を探るか。
法律家として、作家として、私は第二の道を選ぶ。だがそれは妥協主義ではない。不正を許さぬ強さを持ちながら、なお制度を信じるという覚悟である。
それこそが、立憲主義社会に生きる私たちの責任であると私は信じる。
参照情報
・宮沢俊義『憲法講話』(岩波書店)
・日本国憲法第12条・第13条(公共の福祉)
・マックス・ヴェーバー「職業としての政治」(責任倫理と心情倫理の区別)
・日本共産党綱領および党規約
・労働契約法16条(解雇権濫用法理)