第51回衆院選の開票速報を、私はテレビで見ていた。赤と青の議席ボードがみるみる塗り替えられていく。定数465。そのうち316。数字は冷たい。しかし、ときに数字は絶叫より雄弁だ。
自民党が単独で3分の2を超えた。
戦後政治の座標軸が、音を立ててずれた瞬間である。31都県で小選挙区を独占――この事実だけで、今回の選挙が「通常運転」ではなかったことがわかる。
私はの好きな政治家に田中角栄がいるが、今の自民党政治にはかつての包容力がなく、危うさを伴っている気がしている。
一方、「中道改革連合」と銘打った新党は、167議席から49議席へと崩れ落ちた。なかでも立憲民主党は143から21へ。ほとんど壊滅と言ってよい。それに対し公明党は微増。この「ねじれ」は偶然ではない。選挙協力の設計図に、根本的な誤算があった証左である。
政治の世界でも、労働現場と同じだ。構造的な不公平は、必ず内部から軋みを生む。
世間は「高市人気」と言う。たしかに、街頭演説の映像は圧巻だった。政策の条文よりも、決意のフレーズ。理屈よりも、姿勢。数千人の聴衆が歓声をあげる光景は、もはや政策集会というより“ライブ”に近い。
日経新聞が指摘した「推し活化」という分析は、核心を突いている。
長引く停滞。努力が報われない感覚。将来への展望が描きにくい社会。そうした「希望格差」のなかで、人は理念よりも物語を求める。政策よりもヒロインを求める。
応援することで自分も参加しているという感覚――。政治が「負託」から「推し」へと変質する瞬間だ。
これは単なる人気現象ではない。
政党政治そのものの性格変容である。
かつては「護憲か改憲か」が大きな対立軸だった。ところが今回、その軸は有権者の関心の中心ではなかった。安全保障や憲法論議の精緻さよりも、「誰を推すか」が前景化した。
これは静かな地殻変動だ。
欧米型の分断とは違う。怒号も暴動もない。しかし、政党政治がゆっくり溶けていく。私はこれを「日本型ポピュリズムの成熟」と呼びたい。
そのなかで、護憲勢力はどうだったか。
共産党は8から4へ。れいわは1へ。社民は議席ゼロ。
数字だけを見れば、「風前のともしび」という表現も誇張ではない。
共産党の声明は「党の力が足りなかった」と述べる。志位議長は「数が少ないことが弱点だ」と語る。
しかし、社労士の視点から言えば、問題は“結果”ではなく“構造”だ。
この5年間、比例得票は一貫して縮小している。これは一時的逆風ではない。組織体質と社会との接続不全がもたらした、長期トレンドである。
労働組合が組織率低下に直面したとき、単に「仲間を増やそう」と叫ぶだけでは足りない。意思決定の透明性、世代交代、開かれた議論――構造改革が伴わなければ信頼は回復しない。
政党も同じだ。
民主集中制のあり方、指導部の固定化。そこにメスを入れない限り、「自己検討」という言葉は空中に浮く。
衆院465のうち4。れいわを加えても5。
その現実を前にして「確かな共同」を唱えても、国民の耳には届きにくい。象の前の蟻――厳しいが、政治は数の力を無視できない。
それでも私は悲観主義者ではない。
ポピュリズムが強まる局面こそ、制度と理念の再設計が問われる。もし本気で「憲法を真ん中にした共同」を築くならば、立憲も共産も、いったん看板を下ろす覚悟がいるだろう。解党的出直し。世代交代。組織の開放。
労働相談の現場で私は何度も見てきた。
再生する組織は、過去を守る組織ではない。痛みを引き受けて変わる組織だ。
次の国政選挙までに、その覚悟が示されるかどうか。
それは単なる政党の浮沈ではない。
戦後民主主義の骨格が持ちこたえるかどうか――その試金石になる。
数字は冷たい。
だが、その奥にある構造を直視しない限り、歴史は容赦なく前へ進む。