立憲民主党・泉健太の発言を支持する

――政治資金の闇に妥協は許されない

特定社会保険労務士・作家 北出 茂

 

2024年6月28日、立憲民主党代表の泉健太が記者会見で放った言葉は、政治の根幹を突くものであった。

 

私はかつて関西大学弁論部(千里山法律学会)の一員として討論の場に立ち、法律討論会でも論陣を張ってきた。

その当時、立命館大学弁論部のエースとして名を馳せていたのが泉である。

互いに研鑽を重ねた時代を知る者として、私は今回の発言を、単なる党派的攻撃ではなく「政治倫理への警鐘」として受け止めている。

私は立憲民主党の経済政策すべてに賛同する立場ではない。しかし、政治資金の透明性という一点において、泉の主張は正論であると断言する。

■ 問題の核心――政策活動費という「ブラックボックス」

争点となったのは、政党から議員個人に渡され、使途公開義務がない「政策活動費」である。

日本維新の会は国会閉会後にこの政策活動費を廃止する方針を示した。

しかし、その直前、維新は自由民主党との党首会談を経て、領収書を「10年後に公開する」という内容で合意していた。

 

10年後公開とは何か。
政治の現場で10年とは、ほぼ一世代である。関係者は引退し、責任の所在は曖昧になり、検証は事実上困難になる。これは透明化とは呼ばない。先送りである。

 

泉はこう批判した。
「何ですか、これは」「恐ろしい、とんでもないものを残してしまった」「対応は支離滅裂で、政党の体をなしていない」。

言葉は強い。しかし、内容は冷静である。

■ 法律実務家の視点――「10年後公開」は企業なら通用しない

私は法律実務家として、企業の労務監査やコンプライアンス体制の整備に携わってきた。

不正な経費処理や裏金の疑惑があれば、企業は即時調査を行い、説明責任を果たさなければならない。

 

もし企業経営者が「10年後に帳簿を公開します」と言えばどうなるか。
株主は黙っていない。金融機関は融資を引き上げる。取引先は信用を失う。

政治だけが例外であってはならない。

 

政治資金規正法の趣旨は、国民の監視のもとに政治活動を置くことにある。公開は「今」意味があるのであって、10年後では検証機能を失う。民主主義はリアルタイムの監視によって支えられているのである。

■ 「ゆ党」という批判の本質

泉は維新を「第2自民党」とし、「ゆ党」と評した。
与党か野党かわからない立場であれば、野党共闘は成り立たないという主張である。

これは感情論ではない。政治は力学である。


自民党と合意し、結果として政権の延命を助け、その後に「私たちは廃止します」と言っても、整合性が取れない。

政治は結果責任である。

野党を名乗るならば、自民党と対峙する覚悟が必要である。
合意の果実だけを享受し、責任だけを回避する態度は、有権者の信頼を失う。

■ 悪質な政治姿勢を許さない

問題は維新だけではない。
近年、政治とカネをめぐる不祥事が相次いでいる。

 

裏金問題、派閥の資金処理不備、統一教会との関係、説明責任の欠如――これらは国民の政治不信を加速させている。

 

ここで曖昧な妥協を許せば、「どうせ政治家は変わらない」という諦念が社会を覆う。
諦念は民主主義を蝕む最大の毒である。

 

私は、現場で、労働者が不当解雇や未払い賃金と闘う姿を何度も見てきた。権力側が曖昧な説明で逃げ切ろうとする構図は、政治も企業も同じである。だからこそ、曖昧さを許してはならない。

泉の発言は、政党間の駆け引きを超え、「説明責任を果たせ」という当然の要求である。

■ 支持とは「人格」ではなく「姿勢」である

私は立憲民主党の経済政策に全面的に賛成するわけではない。
しかし、今回の発言に関しては支持する。

支持とは盲従ではない。
正しいと判断した主張を評価することである。

弁論の世界で学んだのは、相手を倒すことではなく、論理を貫くことであった。泉の今回の発言は、論理的整合性を求めるものであり、政治倫理の原点に立ち返るものである。

■ 結語――政治は「信用業」である

政治は信用業である。
信用を失えば、制度は機能しない。

政策活動費の問題は単なる会計処理の話ではない。
それは、政治家が国民に対してどこまで誠実であるかという試金石である。

 

10年後公開という置き土産を残したまま、「私たちは廃止します」と言うのは、責任の連続性を断ち切る行為である。

そこを指摘した泉健太の発言は、野党として当然であり、民主主義の健全性を守る立場から評価されるべきである。

悪質な政治姿勢を許さない。
透明性なき政治を許さない。

それが、有権者への最低限の責任である。

私はその一点において、泉健太の発言を明確に支持するものである。